不足の中にある精巧さ

ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない!その鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう! 曙光 85

世を見渡してみると、「結局何がしたいんだ?どうありたんだ?」としか思えないような構造がよくあります。

何となく世間では良しとされている中間ゴールのようなものを盲目的に目標として、こなした先にあるのはただの疲労、というような構造です。

元々、人間にも飢餓に対する戦いがありました。空腹の辛さや餓死との戦い、病気との戦い、そうしたものは本能的であり、それを克服しようとする動き自体は、純粋な知性とでもいうべき働きでした。

しかしながら、「売れないようなものを大量に生産して結局売れずに破棄する」というようなものや、「求められてもいないものを営業し、断られ続けて営業成績が上がらないからこそブラック労働環境で過労死寸前」というようなものは、全く理解しがたい構造ではないでしょうか。

「結局最終的にどうありたいのか?」

そうしたことは無視されていることがよくあります。

「お客さまの不満足を満足に変えること」

というような謳い文句をする企業もありますが、不足感というものは、アイツの領域を脱しないと無くなることはありません。

「不足はない」と思い込もうとする不足感

理屈で言うと不足はないということは満足しているということになります。

一方で「現状に満足をするな」と恫喝する体育会系もいるので困りものです。

「あなたたちだって、何某かの満足が得たくて努力してるんじゃないのか?私はいま既にその満足の領域にいる。また不足を作って不足感の領域に戻れというのかね?そして、また満足を目指すのかね?」

とすら言いたくなるはずです。

確かに不足感がなければ満足している状態です。

しかしながら、単にそうした構造を思考上で理解して「不足がない」と思い込もうとしている状態に陥る人もよくいます。根本的に、不足感は「過去からの因果」という思い込みが原因となっています。

不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み

で、漠然と不足という事を言いますが、生きている以上ある種の不足からは逃れることができません。黙っていても腹は空きますからね。

「ある」「無い」「無いかもしれない」という前提

といっても、「ある」ことを前提とするのと、「無い」もしくは「無いかもしれない」ということを前提とするのでは、不足の属性も違ってきます。

お腹が空いていても、財布にお金はあるし、近くにコンビニもある、家に帰れば何かの食料はある、といったことを、特に意識しなくても無意識に保持していれば「心配」はしないはずです。

「あー腹が減ったなぁ」くらいにしか思わないはずです。そこには純粋に本能的な「感想」くらいしかありません。

すぐに解決することができることを「知っている」という状態ですからね。

しかしながら、不足はないと思い込もうとするということは、満足した状態を渇望する不足の状態にしかすぎず、無いことを前提とした煩悩状態です。

不足感が無いのと、不足はないと思い込もうとするという状態は似て非なるもの、アイツの内にいるか、アイツの領域を飛び越えたかという大きな違いがあります。

といっても、アイツの内にいても本当は「ある」が前提です。アイツがそれに気付かせない、というだけで。

「無い」という前提、「ある」という前提

不足の中にある精巧さ 曙光 85

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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