不平家

それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153

昔からでしょうか、一度ある程度強くなった者は、その子孫までも楽させようと、時に制度を制定し、時に都合のいい思想を輸入したりしました。

現代ではその名残はまだまだ残っているものの、よく分かるのが地主思想です。京都では礼金という制度が未だに残っています。つまり不動産を借りるのに、貸主に「お礼」をしなければならないそうです。サービス供給者にもかかわらず傲慢ですね。

名前は礼金ですが、結局は不動産仲介業者に支払う仲介手数料(貸主側は家賃の二ヶ月分程度)を借り主に負担させようという性質のものです。もうその考えでは借り手が渋るので、最近ではかなり減少傾向にはあるようですが。

社会における平等とは一種の理想であって、実現が不可能なものです。ただ、それはあくまで社会的な理想です。

どれだけ生活面で優遇されようとも、体の仕組みが異なろうとも、「心」という認識するシステムだけは差がありません。これは語るまでもなく、また、語りえません。

利潤の分配構造に関しては、機会と能力に応じて平等であるべきですが、能力をつける時期にすら環境で差がでます。もし、何かの評価が生き方を左右するような類のものであれば、機会と評価基準だけは明確に平等に扱うべきではあります。但し、それはギムキョのような話です。

社会の基準を度外視しても生活することはできます。何処かに勤めて、そこで評価されようとすることよりも、独りででもたいてい何でもできます。そこで生活できるほどの利潤くらいは生み出せばいいではないですか。

 価格的締め出し

山を切り開いたような新興の土地などでありがちですが、敷地面積を広くとって、その後も分筆(土地の分割)させないという構造をもって低所得者層を締め出そうということをよくやります。

また、本人たちは気づいていないと思いますが、拝観料という制度も、価格的締め出しによって、「貧乏人は拝みに来るな」ということになっています。それほどの価格ではないものの、結局そういうことになります。

そもそも拝みに行っても意味はありませんから、構わないのですが、仮に観音などがいたとすれば、そういう不平等的扱いはしないと思います。そういう扱いをするのは人間だけです。

資本主義的にサービスを供給するという意味で、価格を設定するのは構いませんが、そういうものにはキャピタリズムは不要なのではないでしょうか。

かつてはお金を貸したり、行くところのない人を住ましたり、今の行政がしているような機能を寺院が担っていたそうです。そういうことに使っていただけるならと、付近住民は資金を喜んで提供していたそうです。

今では坊主に金をやっても高級車や祇園代に消えるだけです。そういう布施も当然に起こりません。だからといって資本主義的に有料化していくのならば、それはもうテーマパークと呼んで差し支えないでしょう。

不平家 曙光 153


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