不安からの逃避法 改

不安になったときは、どうにか対処しようと粘ってしまうものです。

言い訳を集めたり、一般的にはどうなのかという情報を集めたり、人に相談したりします。

もしくは独りでただただ悶々と過ごす場合があるでしょう。

「気にするな」と言われても気になってしまう。

根性で突破しようとしても、どこかそのストレスに耐え切れなかったりします。

人に話をするのはいいのですが、あまり良い方法ではありません。

特に「正論」みたいなものを持ち出されたら、さらにダメージを食らってしまうくらいならいいですが、偏見を後押ししたり、何かを決めるときに自分の感情よりも「相談した人」をどこか優先してしまう場合があるからです。

世間の正論は義務教育的なものが多いです。

本当の正しさなど論証などできません。

ある偏見、というかある信念による前提がない限り、それの正しさは証明できません。

その前提に立った場合は、もちろん説かれる内容は正当性を持ちます。

「大学生になりたければ、願書を出せ」

これは、正しい意見かもしれませんが、そもそもなぜ大学に行くのか、そして大学に入る(組織の中に入り込む)、ということなら、客員教授や非常勤講師、図書館司書、もっと極論を言うと掃除の人としてだって入り込めるかもしれません。

判断よりも意識を集中させて解放する

常日頃会話の中で行われていることは判断が多いでしょう。

いいか悪いか、これが会話の最後についてまわるパターンです。

遊びとして言葉で遊んでいる場合や、思考実験などなら面白いだけなので問題はありませんが、この会話の最後の「それ、いいね」「それ最悪だね」は、知らぬ間に偏見を形成していきます。

もちろん感情の話なので、それを禁止はしなくていいですが、話した相手の「それいいね/ダメだね」に影響されないように気をつけたいところです。

相手の感情に同情してもいいですが、足元をすくわれないようにしたいものです。

でないと、相手が直接なにかしらの行動を強制しているわけでもないのに、知らぬ間に相手の気分によってこちら行動や気分まで振り回されてしまいます。

ただ聞くだけ

ただ、聞くだけ、もしくはもっと感情的になるように誘導する、という方がいいかもしれません。

普段は見ているようで見ていません。

目の前の視覚情報も手抜きなら、「考え」も手抜きです。

 判断するよりもただ、その感情や信念を傍観するほうがいいでしょう。

もしかしてその何かに意識を集中した日は、夢に出てくるかもしれません。

そこで感じたものは、恐ろしいものであっても何かの呪縛や不要な観念を解放してくれている可能性が高いです。

自分でもなかなか気づけないような「実は気になっていること」を夢で見せてくれるかもしれません。

不安への対処法

逃避していては、また、やってくるかもしれません。

本来は不安は勝手にやってきて勝手に消えていきます。

あることが気になっていたのに急に仕事が忙しくなって仕事に集中すると、そのことを忘れていたりします。

そうして月日が流れれば、不安だった対象すら忘れていることがよくあります。

何をどうこうしたわけでもなく、もう不安はなくなっています。

ただ、「不安から逃げよう」と、その対象に意識を集中している間は、一時的に逃れられてもまたやってきます。

不安と戦おうとすれば、「アイツ」との論理合戦になって、実りがないにも関わらずヘトヘトになります。

そんなときは、「今、この瞬間」に集中してみてはいかがでしょうか。

現在に集中するのですが、今から1時間後のことも1分後のことも考えてはいけません。

1秒先も考えてはいけません。

今に意識を集中させようとすると、最初は「ぶれ」が生じるかもしれませんが、だんだん「今」に近づいていきます。

1秒先も1秒前も気にせずに、今に集中してみてください。

ふあっとした感じとともに、今、何も起こっていないことが実感できます。

ただ映画のスクリーンに映った「絵」だけが目の前にあるような感じがします。

防御壁がなくても、目の前のすべてが自分を侵略できないような、変に守られたような安心感も感じます。

ところで、何も起こっていない「今」が、いくら連続しても何も起こっていないはずです。

起こっていると思わせている黒幕はいったい誰なのでしょうか。

そんなことはあまり気にしてはいけません。

過去記事⇒不安からの逃避法


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