不可能な階級

貧しく、楽しく、そして独立的!― これは一緒に可能である。貧しく、楽しく、そして奴隷!― これも可能である。― そして私は、工場奴隷制度の労働者たちにとってこれ以上よいことは言えない。 曙光 206 序

階級として有名なものはカーストです。そのカーストを紐解いてみれば、単にインド・ネパール地域に侵略してきたアーリア人が自分たちをバラモンとし、現地民をスードラとし、その混血をクシャトリヤやバイシャとしたのが始まりだとされています。

人とすらみなされないバリアという階級に関しては、おそらくそのエリアの国を構成する庶民とはあまり関わりなく、過疎地などに住んでいた少数民族などが対象になっていたのでしょう。

蓋を開けてみれば戦争の勝戦国と敗戦国という関係にしかすぎないということです。士農工商についても同じですが、概ね武士とその他くらいにしか庶民側の意識はなかったようです。

そして、このカーストは階級、階層の概念を宗教的に作り上げたものになりますが、現代であれば資本主義という一種の宗教の上で、隠れた階級階層の思想が出来上がっています。根本は敗戦国であるという感じのイメージでいいでしょう。

生まれと行為

「人は行為によって、示される」という良い例えがあります。

家を建てるという行為を常日頃しているのだから、その人は大工と呼ばれる、という感じです。

「生まれによってバラモンとなるのではない」

と言う感じのことをシッダルタは言っていました。

これを現代に置き換えると、同族企業の名ばかり役員で、登記上は会社役員でありながらも、役員業務は特にせず、遊んでいる人がいたとすれば、その行為としては「遊んでいるだけ」なので、遊び人であり、いくら社会的な名称が「常務取締役」など会社役員であっても、「遊び人」である、ということになります。

その人は、同族企業の一族に生まれたから「会社役員」になっています。

しかし、説法的に言えば、「生まれによって会社役員となるのではない」ということになります。

その人が会社役員としての役割を果たして、会社役員となるのです。

一応スッタニパータから引用しておきましょう。

生まれによって「バラモン」となるのではない。
生まれによって「バラモンならざる者」となるのでもない。
行為によって「バラモン」なのである。
行為によって「バラモンならざる者」なのである。

スッタニパータ 650

資本主義に関しては、単に「働いたら働いた分だけ報酬をもらえる」というような感じで把握している人が多くいます。

しかしながら、それは資本主義のひとつの特性であって、根本は、資本を持っている人が、人の生み出した価値を奪い取ることを正当化しているというものです。

あまり事を大きくイメージするとわかりにくいので、実生活に例えて言うと、土地を持っている大地主が永久に不労所得で儲かっていくということです。

それは生まれにより引き継いだ利権です。

土地を持っている人はその土地を人に貸すことによって利益を得、土地を持っていない人は、地主に「自分が働いた分」を納めなければならない、というのが、簡略化して考えたときの資本主義です。

そしてそれの大きい版が国家単位の資本主義です。

資本主義である限り、生まれによって階層が出来上がります。つまりこれは長い歴史の中で出来上がったその土地での争いの勝敗や国家単位の争いなどの延長で出来上がった、勝者が「勝者と弱者」を定めて長期間支配できるように組み込んだ仕組み、という感じになります。

露骨にそれを行うと革命が起きるので、あえて生かさず殺さずの状態くらいで征服するという感じの構造になっています。

しかしそれらは、社会という枠組み、資本主義が当然であるという前提の元の階級構造です。

社会という枠組みを超えてしまえば、そのようなものはありません。だから社会で革命を起こすことというよりも、自分はどうあるかというだけで十分です。

夢を潰された人

普通に考えると、生まれによって会社役員となり、世間では会社役員としてまかり通りながら、そこそこのお金ももらっているような遊び人がいたとすれば、それは怨恨の対象ともなりそうです。

しかしながら、そうした人も、生まれによって定められたことを受け入れているという意味では「夢を潰された人」です。

生まれによって生き方を決められてしまい、そうした視野しか持てずに、視野を作った人たちの都合で生きていく方向ができあがってしまっています。

他人の意識の中で生きている、という意味では夢を潰された人ということになります。

他人のことは関係ありません。

自分がどうあるか、ただそれだけです。

不可能な階級 曙光 206


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