上品な人々の悲劇

心からの親密さをうまく示すことの出来ない上品な人々は、その上品な性格を、慎しみ深さや、厳格さや、ある種の親密さの軽蔑などによって推測させようと努める。彼らの強い信頼感は姿を見せることに恥じらいを抱いているかのようである。 曙光 288

よくビジネスマナーなどの研修で言葉遣いについて研修をすることがありますが、相手尊重した版、こちらが遜った版、丁寧に言った版、そして「おビール」。

おビールって何よ?

美化語です。

何じゃそりゃ。

というようなことを経験したことがあります。

キャシー塚本先生のおマヨネーズのようなものですね。

未だにそういうものの意味がよくわかりません。

おそらく大昔はそういった取り扱いはされていなかったでしょう。

そうです。常識はすぐに常識ではなくなります。先日堀江氏もそんなことを言っていたそうですね。まあ堀江氏は昔から一貫してそういったことを言ってらっしゃいます。

常識が常識ではなくなる

そうです。思い出しました。何度も何度も「白い靴下事件」について触れていますが、当時中学校では同じように「白い靴」しか履いてはいけない、という決まりもありました。そこで「どう解釈されるのだろう?」という実験するために、ジョーダン12の黒がメインの方を履いて行くことにしました。

ジョーダン12

制服の裾でハイカットの黒の部分が隠れれば白の比率が上がり、座ったりして裾が上がれば黒比率が上がる、という仕様であり、かばんには白の靴紐を常備し、ツッコまれたら黒の靴紐を白に変えて白の比率を上げるという予防策を打ちながら挑みました。

どう屁理屈なのかを説明せよ

「屁理屈をぬかすな!」

と言われましたが、「どう屁理屈なのか説明して欲しい」という旨で、また相談室に監禁されました。というより監禁しました。

「概ね白、多少のラインは認める、とあるが、概ね白ということは、きっちり面積を測ろうじゃないか。タコ糸でも持って来なさい。これで概ね白なら土下座してもらおう」

ところがどうでしょう。自分が卒業して15年以上経った今、母校の生徒を見てみると、ショッキングピンクや、蛍光オレンジのスニーカーを履いて歩いているではありませんか。

あの時のあの校則は何だったのでしょうか。

今すぐ、謝罪して欲しいですね。

常識などすぐにコロコロ変わってしまうという一例です。

上品な人々の悲劇

よく夫婦間でおならをしてはいけないというような人がいますが、なぜでしょうか。むしろそれくらいで何か関係性が気まずくなるのは逆にいかがなものかと思います。

同時に、スーツで地べたに座るのは良くない、と言われますが、そんなことは誰がどのようにして決めたのでしょうか。

むしろそんなことを気にして無駄なエネルギーを使っている方が、馬鹿げています。そもそも自分が動物だということを忘れてはいけません。

そこに偽りが見え隠れするのなら、それは邪念であり、恐怖心を多く隠すような行動です。

恐怖心があるからこそ「上品に見られないと困る」とでも思っています。

しかし恐怖心がないと、そんなことは関係がありません。

品性というものは相手を不快にさせないというようなことのようですが、偽りが見えたのならそれは多少の不快感が起こってしまいます。

このパラドクスをどう取り扱っていきましょうか?

「この人は自分の恐怖心から、自分を覆い隠し、解釈によれば私を騙そうとしている。それが不快ではなく、何だというのか?私に対する畏怖だというのか?『その優越感を持って快いとせよ』ということか?」

その答えとともに、ビジネスマナー云々を人に説くべきでしょう。

上品な人々の悲劇 曙光 288

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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