一番危険な忘却

われわれは、他人を愛することを忘れることではじめ、愛する価値のあるものを自分にもはや見出さないことでおしまいにする。 曙光 401

「自分自身に全幅の愛を注ぐ」という感じでいきましょう。そうなるとナルシシズムのようだと思う人もいるかもしれませんが、「うぬぼれ」とは少し属性が違いますので注意してください。

所謂「うぬぼれ」は、他者との相対的な比較によって自分は優位にあるという自己愛です。

顔がキレイだとか、実力があるとかそういう感じですね。

でも一般的に思われているそういうものは、比較対象がないと判断できない要素です。

で、そういうものを根拠にしている自己愛と、無条件の自己愛は全く異なるものであり、外界を媒介して「獲得しよう」としていた愛の感情は、どちらにしても自分の内側で起こっていることです。ということで外界を媒介する必要はありません。

といっても、「彼女に夕食を作ってもらって、それを食べた時に愛を感じた」という記憶があったとしても、それを自分で叶えて満足しろというものではありません。

「自分で夕食を作って、食べて、自分への愛を感じろ」

というようなものではなく、それすら外界を媒介しているので結局構造はそれほど変わっていないというところに注目です。

「自分が好き!」という主張

で、「自分が好き!」となっている人を見て、おそらく不快に思っているはずです。

僕でもあまり良い気分にはなりません。

なぜなら周りに主張しているからです。

それは先ほどの、WindowsかMacかで、単に好きなら自分で使っていればいいものを、周りに主張しているのと構造が変わらないからです。

アイドルのような人が

「私を見て♡」

となっているのと、さほど変わりありません。

自分が好きならそれでよし、周りに主張しようとするのは、周りを条件にしているという要素がどこかに見え隠れします。

「自分が好きな私ステキでしょ?」

というような感じです。

自己愛

本当に自分を心底愛していたのなら、ある種「自己愛」という感覚すら起こってきません。

で、大体の場合は、自己愛というと「アイツ」を「アイツ」が愛しているという感じです。

「こんなにすごい自分が好き」

という感じです。

その「すごい」には比較が入っています。

「自分が嫌い」というよりはマシかもしれませんが、まだまだアイツのゲームの中にいます。

自分が嫌いな人などいるはずがない

だいたい、自分が嫌いな人などいるはずがないのです。

自分が嫌いだと判断しているのは「アイツ」の演算から嫌いだと判断し、不快な感情を受け取っているというのが実情です。

何かと比較して「劣っている」とか「できていない」とか、そういう判断がどこかに入って、「嫌い」という感情が発生しているはずです。

で、嫌いとか嫌な感情は、一種のシグナルです。

嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてくる」で触れていますが、不快な感情は、概ね思考のズレを示唆しています。

といっても、その記事で書いたように、社会的な目線での道徳からそれているという感じではなく、義務教育で「立派な人」とされている人格像からは外れているぞ、という感じでもなく、単に本来100点の状態からはズレているという感じです。

一見間違っているような、失敗したかのように見える展開も、その後の展開のための伏線にしか過ぎないのが本当のところです。そういうわけで、常に選択はベストであり、無闇矢鱈に反応する必要はありません。

よくある話ですが、以前の彼女にフラれたからこそ、今の彼女との交際の準備が整ったというケースもあります。

嫌だという感情を大切に

勤めていた会社がブラック企業だったからこそ、辞めて起業したような人もいるくらいです。

だから、嫌だという感情を大切にして、「そのエネルギーを思考上でどう転換させるか?」というのもアリなのです。

時に爆発的なエネルギーになって、自分の力とは思えないほどの力を発揮できることもあります。

嫌な思いをしたら、自分を責めるということをせずに、相手を責めるということもせずに、ただ思考を追い、その後しばらく放って置いてひらめきが来るのを待ちましょう。

「お前はブスだ」と言われて、自分の顔を責めたり、相手に抵抗して言い返したり、相手を恨んだり、自分を正当化する必要はありません。

自分を嫌いになる必要はありません。相手のことは嫌ってもいいですが、抵抗しようとしてはいけません。

もし自分に矛先が向いてしまうくらいなら

でも、もし自分に矛先が向いてしまうくらいなら、できるだけ相手に向けましょう。

どうして嫌いな人のせいで、自分を嫌いにならなければならないのでしょうか?

そんなことはアイツが考えていることです。

もし学校でいじめられているとしましょう。

それで、自分が嫌いだ、と。

そうなるくらいなら、相手を殺すくらいの勢いで本気になるべきです。

といっても、相手の状態を条件にしてはいけません。

なぜ、人をいじめてはいけないのか」で触れていますが、「なぜ、いじめがいけないことなのか?」といういじめの善悪、相手の非や自分の正当性について考えるよりも、まず自分自身が不本意にいじめられる事自体は、倫理的善悪を通り越して抗うべきこと、解消すべきことです。

そういうことで、勇気のいることですが、転校してみてはいかがでしょうか?

それを親にすら言えない、ということなら、金属バットでも持って、まず親御さんに相談しに行きましょう。

「応じない場合は、そいつらを今から殺しに行く」

それくらいの気迫ならだいたいのことは通ります。

相手が100人でも大丈夫です。

人間、最も恐ろしいのは覚悟を決めた人の気迫です。

遊び感覚のいじめっ子など何も恐くはありません。

その感覚で行くと、転校先でも

「お前おもろいなぁ」

と理解してくれるような親友ができるでしょう。

人は本音で生きている人に惹かれるものですからね。

誰かに愛を貰おうとするよりも、自分を愛する方が手っ取り早いですよ。

「気付いてくれ」なんて思うより、真っ先に自分を愛しましょう。

で、それが本質なのですから。

相談相手を間違っている

といっても、そうしたいじめ問題は、相談相手を間違っている傾向にあります。

場合によっては傷害事件や恐喝事件に該当するので、犯罪として警察に通報するのが正しいのです。

「とにかく犯罪事件として、そいつらを家裁送りにする」

そう思考を変えてみましょう。

そうすると、バットで脅せるくらいの気迫なら、簡単にできるはずです。

ひどい場合は、刑事事件として、告訴するに越したことはありません。

コツは簡単で、単に「いじめられている」というのではなく、何月何日何時頃、どこで誰に、どういうことをされた、ということをしっかり伝えることです。

学校に相談しても揉み消されることがあります。

警察でも軽くあしらわれる事がある可能性もゼロではありませんので(暴力事件を学校だけで解決する理由「道徳的な感情と道徳的な概念」)、スマートフォンでも出してボイスレコーダーを見せましょう。

「今から通報内容を録音させていただきます」

そういうと、相手は姿勢を正すはずです。

あとに残るものを用意すると、それだけで対応が変わったりしますので覚えておきましょう。

そして、「相談」ではなく「通報」や「告訴」として話すのです。

でないと、「相談には応じたよ」という事になりかねません(行政担当者にありがちです)。

そもそも犯罪ですから、通報先は警察です。

どんな処分になるかはわかりませんが、上手く立件できれば家庭裁判所送りになるでしょう。

そして賠償請求でもなんでもすればいいのです。

その上で転校するなんていかがでしょうか?

もし僕がそういう立場なら、真っ先にそうします。

いまならスマートフォンにボイスレコーダーもありますし、結構簡単だと思いますよ。

君主論から考えるいじめへの対応と対策

一番危険な忘却 曙光 401

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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