ルソーに反対

われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむ文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。

「われわれのすぐれた道徳は文明のこれらあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわれわれの弱い―社会的な概念、心身に対する絶大な支配は―自主的な、独立的な、とらわれない人間を、すなわち強い文明の支柱を破壊してしまった。劣った道徳に現在なお出会う場合、これらの支柱の最後の破片が見られる」― 曙光 163 一部要約抜粋

社会契約説で有名なルソーです。ルソーについては特に触れませんが、ニーチェはたまに彼の名前を出しますね。ちなみにルソーは「むすんでひらいて」の作曲者です。

ルソー 「このあわれむ文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」

ニーチェ 「われわれのすぐれた道徳は文明のこれらあわれむべき状態に対して責任がある」

bossu 「喧嘩をするな」

という、新たな表現もたまにはしていこうと思います。

喧嘩をするな、では少し曖昧すぎるので、少し言い換えましょう。

bossu  「道徳すら虚像で、文明も虚像で君たちの妄想だから、誰にもどこにも責任はない。喧嘩をするな」

という感じに言っておきましょう。

ニーチェにしろルソーにしろ、彼らが語っているのは、意見であり、思想です。思想はどうでもいいことです。どこに何かの責任があって、誰かが責任をとったら何かが変わるのでしょうか。社会は変わるかもしれませんが、自分は変わりません。

社会と思想と哲学と

社会と思想は相性が良いですが、哲学と思想は似て非なるものです。また、哲学と事実は解釈に用いられたりもしますが、哲学は事実が見えないがゆえの妄想の混入があります。

社会について語る時は社会についてだけ語るべきですが、定義付けには形而上学的前提が必要になってくるという問題があります。それを主義として進むのかプラグマティックに進むのか、それすらある種の思想なのでたちが悪いという性質を持っています。

思想はどうでもいいことですが、思想で社会は動いてしまいます。そして思想によって社会が動いた時の結果を、自分が受けてしまうという恐怖心があります。なるべくそんなことは無効化していけばいいことです。

社会について語っている暇はありません。賛同したり批判している暇はありません。社会を何とかして、その結果を享受しようということは、極めて非効率であり、本質的な事柄ではありません。自分の心をかき乱すだけの無駄な事柄です。どんな現象が起ころうとも、受け取るのは自分でしかないのですから。

現象を弄くるより、少しずつでも受け取り方を変えていくことこそ、本質的で確実な方法です。

ルソーに反対 曙光 163


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