バラモン教とキリスト教

力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話し、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。 曙光 65

この部分は、全体像が掴めればわかるような話ですが、予備知識無しでは紐解くことが難しいですね。書いている内容共々、こういうところがすごくニーチェっぽく感じます。ちなみにバラモン教と言うものはなく、便宜上の定義です。

まあよくスピリチュアリズムなんかで使われるような輪廻の原型です。

だいたいこの手のものは暴走します。魂というものを設定して、それにはデータベースがあり、生まれ変わりを通じて、ステップアップしていくという構造になっています。

バラモン教

バラモン教は古代アーリア人の原始宗教を元にして形成されていったヴェーダ聖典を中心にした考え方です。アーリア人はインド北部に侵略した際に、アーリア文化の中の支配階級を保持するため、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族)、ヴァイシャ(庶民)、スードラ(シュードラ、奴隷)、そしてバリア(人とみなされない奴隷未満の階級)といったように人に階級を作りました。なお、侵略された原住民族はスードラやバリアとされ、侵略者であったアーリア人がバラモンなどになっています。

その後、紀元前二、三世紀ごろにインドに元々あった非アーリアの原始宗教と習合したのがヒンドゥー教です。明確にバラモン教という宗教があるというよりもインド土着の原始宗教と結びついたヒンドゥー教との区別をするための便宜的呼称という感じです。

で、当然に善悪基準があって、「来世でエライことになるぞ」ということで、「罪を犯す前にポアしてあげよう」なんてな思想が生まれるのです。

また、ステップアップということでヒエラルキーが存在します。偉い人と偉くない人、という差別の原因になります。

そういうことでスピリチュアリズム大好きの占い師たちは、ルサンチマン的に、また狂信的に「自分たちはそこそこ魂のレベルの高い人」という自負を持って、人に説教します。

アンチバラモンが発端ではない

で、たまにゴータマ兄さんが、アンチバラモンで社会的に異を唱えたという人たちがいますが、アンチバラモン的なのは結果であって、社会を良くするために沙門になり、その後悟ったわけでも何でもないはずです。別にノーベル平和賞が欲しくて慈善事業と呼ばれるものを始めたような構造ではないのです。

時代劇を撮るつもりがなくても、自分の撮りたい舞台背景がそうした時代背景だった、でも周りには時代劇が好きでそれ中心に映画を撮っていると思われているようなものです。

すぐに相対的な尺度で歴史的に、社会的に解釈しようとするから話がおかしくなるのです。

ということで、スピリチュアリズム大好きの自称「魂のレベルの高い人」である占い師などについてでも書いていきましょう。

自称「魂のレベルの高い人」

自称「魂のレベルの高い人」ですが、「レベルが高い」と判断するのはどんな基準でしょうか?

何かの本で読んだ基準か、師匠のような人に聞いた話か、おそらくその程度でしょう。

大日如来が云々ということを言う人もいますが、ゴータマ兄さんはどこにいったのでしょうか?

サーリプッタやモッガラーナはどこにいったのでしょうか?

「なんだかすごそう」ということで、神格化し、「拝めば自分を助けてくれる存在」という扱いをしていますが、そうしたことに異を唱えていたのは誰でしょうか?

「召喚して依頼者の恋愛成就を叶える」みたいなことをしている人もいますが、どう考えているのでしょうか?

「何かを行って不足を充足にする」というものは根本からズレています。

相対的尺度としての「スピリットのレベル」

「レベルが高い」と判断するためには、社会的、つまり他人との比較の中で相対的な尺度を採用する必要があります。

ということは、「アイツよりは上だ」とか「あの人よりは下だ」とか「あの人とは同じくらいだ」というようなものが生まれます。

相対的基準があればそれはひとつの制限となり、苦しみの原因になります。

心は今ここにひとつ、認識している世界を受け取っています。

俗に言う他人の心の中に入れたとしても、他人の意識の受け取り状態を自らの心で受け取るだけです。

スピリチュアリズムという夢の中を彷徨っているだけ

「コントロールしなければならない」を筆頭とした、「〇〇しなければならない」というものは、全てアイツによる騒ぎです。

そういうわけで「もっとレベルを上げねばならない」とか「周りにいる人のレベルを上げてあげなければならない」という条件化と条件クリアという構造は、アイツの内にいる人の「意見」です。

そうした条件と条件クリアという構造の中にいる内は、永遠にゴールはありません。

自称「魂のレベルの高い人」は、ただスピリチュアリズムという夢の中、アイツが作った仮観の世界を彷徨っている人たちです。

まあ僕には全然関係ないので、全く問題はないのですが。

バラモン教とキリスト教 曙光 65

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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