キリスト教の文献学

キリスト教が誠実と正義とに対する感覚を陶冶することがいかに少ないかということは、キリスト教の学者たちの著作の性格の上からかなりよく見積もることができる。彼らはその憶測するところを、あつかましく、あたかも教義のように提出し、聖書の章句の解釈に関して誠実に困惑することは、稀である。 曙光 84 序

あまりストレートに宗教学的な分野に触れるつもりはありませんが、どうしても曙光の中にはキリスト教を名指しして書いている箇所が多くあります。ということで、ユーザーさんにも検索エンジンにもキリスト教マニアかと思われるようなタイトルが多く存在します。

なんだかんだでイエスもカルトによく利用されます。なぜか自分たちの下位に属する存在としてイエスが用いられることがよくあります。

その理由としては大きくイエスには権威性があるからです。

そして特にこの日本においては、「権威」という相対的尺度がモノを言う事がよくあります。

そうしたことからイエスはよく踏み台にされるのです。

ということで、そうした権威と権威の行動の信憑性について書いていきましょう。といってもイエスは関係ありません。

営業の師匠(仮)との思い出話です。

権威と権威の行動の信憑性

昔、勤め人だった頃、営業の師匠(仮)と話をしていた時のことです。

「人はどうやって商品を選ぶと思う?」

そんな問答がありました。

「何かの基準があって、その基準の上で優劣を判断して選ぶんじゃないですか?」

「じゃあその基準はどうやってできる?」

「ひとつは経験から得たスペック的なもの、もうひとつは、その場の感情という感じでしょうか?」

「まあそんな感じやな。60点」

そうして、師匠(仮)は話を続けました。

「俺らが『良い』と思って薦める場合、その基準を俺らは持っている、しかし相手はその良いとか悪いとかいう基準自体が漠然としたものになっている。だから自分たちが薦めても相手には響きにくい」

つまり師匠(仮)としては、相手には基準がないから良さの判断ができないということでした。

「よほどの学者でもない限り、何かを基準とし、それを指針として物事を判断している。そして、その基準の中でプロである俺らの基準はさておいて、素人の相手でも必ず持っている基準がある」

師匠(仮)は続けました。

「よほどの人間でもない限り、何かの基準がないと判断はできない、判断基準を自作できるような人間はそうそういない。そこで世間一般で、プロアマ問わずに基準となりうる一つの要素がある。それは権威性や」

「権威性と言っても、本当は『誰が言ったか』というのは、判断には重要ではありません。むしろ邪魔な要素です」

「そうや。でもそんなことはほとんどの人間は思っていない」

「まあ物売るときなんかは、そんな議論はされませんよね」

「そういうのは学者の世界や。といっても学者でも気にするやつが多いけどな。しかしただ権威性だけがあればいいという問題でもない。権威性とその権威の行動の信憑性が問題となるわけや。

ところでや、例えばお前らがみんなで雪山にキャンプに行ったとする。それで全員が風邪かなんかの病気になったとしよう」

営業の師匠(仮)は例え話をしてきました。

「それでキャンプから帰ってきて、メンバーの一人のお父さんが医者やったとする。そのメンバーがお父さんからもらった薬が欲しくなるのが普通の人間や。

ほんまはもっといい薬があるかもしれん。もっといい医者もいるかもしれん。でも現に今お前は病気でしんどい。そんな時に、ひとまずそのメンバーのお父さんが我が子に処方した薬を欲しがるやろ」

師匠(仮)は、下手な心理学者よりも人の心理を研究していました。

「ポイントは、医者であることと、『我が子に施した処方』ということや。我が子に下手なことはせんと思うやろ」

つまり、医者がした行為であること、その裏に医者という権威性があること、そして医者がした行為自体の信憑性として「我が子にした行為」という信頼があることがキーポイントだというのです。

「あのな、『医師が認めた効果』と単純に言うか、『医師自身やその家族も使用している』というか、どっちが説得力あると思う?

普通の人間はな、判断基準がないねん。そこまで色んな分野には精通してないからな。

でも判断の基準が欲しいねん。でないと選べんからな。

『損』はしたないねん。騙されたくもないが、ここで判断をミスってチャンスを逃したとも思いたくないねん。

でも基準がないねん。で、ほとんどはそうした権威的なものを指針として、さらにそれが信じるに足りると思ったら、素直に選ぶねん」

キリスト教の文献学 曙光 84


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