われわれの方が高貴である

忠実と、寛容と、名声への羞恥心。この三つがひとつの心情に合一すると― われわれはそれを、貴族的、高貴、高潔と呼び、これによってギリシア人を凌ぐ。 曙光 199 序

「高貴」という字を見ると、どうしても10代の頃にオールディーズライブハウスで見かけた「軽快にステップを踏む髭のおっさん」を思い出してしまいます。

「こうしたものの嗜みもあるぞ」という感じで得意げです。高そうなスーツに口髭、「ステキですね」の一言を欲して仕方ないという感じでしょう。

そう言えばその頃くらいに、メディアが「セレブ」という言葉を浸透させようと躍起になっていた事を思い出します。本来は著名人というような意味を持つセレブリティですが、その少し前のゴージャスから進化する形で、一種の流行の仕掛けを作ろうとしていたことに個人的には嫌悪を感じていました。

こうした高貴的なものを代表するのはトヨタとレクサスという感じでしょうか。特に中身は変わらないのに100万以上の価格差があるそうです。

百貨店のメンズコーナー

また、一時20代前半のとき、株でちょろちょろ儲けながら、使いみちが無いことに気付き、ひとまず毎月百貨店に行っていた時期があります。

そして、それが一年くらい経過した時、いわばワンクールが周るので、百貨店のメンズコーナーはどのように変化するのだろうということを確認しに行った事があります。

すると、去年と同じような型で、異なるところと言えば、ボタンやステッチの色のみという感じで、特に変化もないようなものが「新作」と掲げられていました。

確かに収益を考えるのであれば、なるべく新しいことはせずに、同じものを使いまわしたほうが利益率は上がりますが、「ファッションであり、定価で売っているのにそれはないだろう」ということを思いました。それからというもの、百貨店のメンズコーナーに行くことはなくなりました。

高価なものを利用したルサンチマン

高価なものは概ねルサンチマンに利用されます。

解釈変更、価値基準の変更によって、傷ついた自尊心を高めようとする場合に、高級品を持ってセレブ気分を味わうというものです。

世の中で勝ち負けのあるものは、それがスポーツであれ、レースであれ、格闘技であれ、だいたいゲームなのですが、二流以下ほど、その技能の質の高まりなどではなく純粋な勝ち負けにこだわります。

なぜなら、自尊心をベースとしているからです。

「みんなにちやほやされるのは私だ」

ということを目的にしている、という感じです。

まあ、スポーツ推薦で学校に入学できるというように、変に価値をつけすぎているからこそ、実利的な事柄も絡んでいるゆえ起こり得るという要素もあるでしょう。

しかしながら、本質的なカッコよさと言うものを考えた場合でも、男が男に惚れるくらいの技能などが本質的なカッコよさです。

しかし、それができないとなると、機材で誤魔化したりルールを変えたりして、何が何でも「勝つ」ということをやろうとします。

そしてそれすらできない場合は、親を脅してでも高級品を身に着け、自尊心を高めようとします。

いわば、勝ち負けの基準の変更です。その時に、高価なものが利用されるのです。

Tシャツに書いてある「夢」

概ね、居酒屋やたこ焼き屋のTシャツに書いてある「夢」は、単にそうした飲食店で儲けたお金で高級セダンなど買い、それに乗って同級生のいそうなところに赴き、「よ!」などといって、車を見せびらかせる程度の夢です。付き合う必要はありません。

マルチネットワークの人が「あなたも理想の生活をしませんか?」というときに、「あなたもランボルギーニに乗りませんか?」と勧誘することが良い例です。

それで実際にベンツやレクサス、フェラーリやランボルギーニに乗っている人がいたとしても、よく知らない人からすれば、「車」という認識くらいしかありません。

で、反応が薄いとなると、「これ高いんだぜ」みたいなことを自己申告するのです。

こうしたことが寒いということの最終到達地点が、京都洛中の文化です。

「コイツ寒いなぁ」と思いながら

「へぇ、ええ車乗ったはりますなぁ」

とやり過ごすのです。

それはルサンチマンでもなんでもありません。僻みでも負け惜しみでもなんでもないのです。

われわれの方が高貴である 曙光 199


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