われわれの幸福は賛否の論拠ではない

多くの人間は、わずかの幸福しか感じる能力がない。 曙光 345 序

思い返せば明確に人生に疑いをかけた瞬間というのがあります。

おそらくそれまでにも細かいものはたくさんあったのでしょうが、一番明確に覚えているのは、高校二年生の時です。

アルバイトを終えて、家に返ってホットコーヒーを飲みました。

その瞬間です。

「うまい」

と、ここまではただのおっさんのようなつぶやきです。

その「うまい」の瞬間にやって来た虚無感です。

ある種の安堵と幸福感を感じたのですが、この瞬間は一体何なのだろうというような感覚です。普段この時のコーヒーと同じコーヒーを飲んでも、この時と同じ感覚を感じたことはありません。一種の疲労と安堵があって感じたように思いました。この瞬間のためにバイトをしてきたのか、というような感じです。

「生きるとはどういうことか?」

まだまだ頭も発達段階ですからその程度の感想ですが、思えばその瞬間に、一番最初に「どう生きていくか」というより、「生きるとはどういうことか」ということに着目したと思います。

「どう生きていくか」というのは、やり方の問題であって、生きること自体には疑いをかけていません。生きることは当たり前で、どんな風に日々を過ごすのかというようなことです。

しかし、その時に初めて着目したのは、「生きているということは、どういうことか」という点です、「何のために生きているのか」という問いではないことに注意してください。

「何のために生きているのか?」という問い

「何のために生きているのか」ということに意識が向いた場合は、決着がつきません。「何のために」ということになると、ある意味で「誰かのため」だったり、「自分が『誰かの力で』に幸福になるために」という方向性に向かいます。

それを解決するような詐欺が宗教です。

宗教の典型は、自分以外の何かの存在やある思想など、ひとまず上位概念があります。いわば絶対者です。それの示す方向に向かうことによって、自分がまだ体験していないような何か幸福な状態などになるという構図です。しかしそれは仮定であり、確認できない世界観です。

ニーチェなどが指摘したのは、イエスが語ったことを宗教化したパウロの思想、教会の思想が消えたように見えて、民主主義や資本主義という一種の思想に変換されただけで、未だに残存しているということです。

「何のために生きているのか?」

に対しての仮定的回答のようなものです。

その仮定を絶対視して、行動様式などがそれに従うとなると宗教になりますが、信仰というものは、疑っていなければできません。

やはり仮定の領域に留まります。

「何のために生きているのか?」

何のためでもありません。生存本能のためにやらされているというのが実態です。なにか崇高な目的とかそういうものがあるわけではありません。

さて、少し話が脱線しそうになりましたが、高校生の時の続きです。

「生きているということは、どういうことか?」(bossu 高2 Ver.)

高校生の時に、バイトが終わってコーヒーを飲んだ瞬間です。

俗にいう「幸せとは何だろう?」というような感覚に近いような問いでした。

「幸福を望まない存在はいない」、というのは当然といえば当然です。

しかしこの時は、ただマイナスからゼロに戻ったような感覚でした。

疲労と安堵という構図です。

緊張が解けたという説明でもいいでしょう。

そういうわけで、宗教の構図は、「この疲労や緊張を解くためには」という方法論の提示がよくあります。しかしそのためには証明しきれない事柄を信仰しなければなりません。信仰しなければならないということは一種の緊張です。

ここまで明確には考えていませんでしたが、その時も、そのような感覚だけはありました。

そこで、もうひとつ、いわゆる世間で今まで説かれてきた「生き方」をクリアしていくこと、「それが何なのか」ということに疑問を持ちました。

つまり働いたり、俗にいう結婚したり子供を作ったりです。

それぞれに、

「それが何なのか?」

と投げかけることにしました。

高校生の頭では少し限界が来たようです。

ただ説明はできなくても、「そうである必要はない。必要があるということは、必ず要るということ、何のために必ず要るのか?」というような宙ぶらりんの考えが出てきました。

思えばそれまででも安堵というものは経験しましたが、歓喜というものは経験したことがありません。

なんとなく楽しいとか、なんとなく面白いとか、その程度です。

そこで想像してみることにしました。

もし泣いて叫ぶほどのうれしい出来事があっても、その気持ちは寝て覚めれば必ず薄れていくということを。

では全て束の間の出来事なのではないか、ということです。

生きているとはどういうことか、という問いに対して、高校生の僕は

「よくわからないが、何かをこなしているだけで、喜びなどほとんどない。むしろほとんどが辛かったり疲れるようなことばかりで、喜びだと思っても、それは束の間の『疲労を忘れているような瞬間』なのではないか」ということを考えました。実際に寝ぼけているときの方が幸せだという実感がありました。

「うーん…」

ひとまずその時は、そんな感じで終わりました。

それから数年後、また同じような問いに導く大事件が起こりますが、それはまたの機会に。

われわれの幸福は賛否の論拠ではない 曙光 345

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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