われわれの師

若い頃われわれは、師と案内者とを現代の中から選び、われわれがまさしく遭遇する範囲の中から選ぶ。現代は、他のいかなる人たちよりもわれわれに適した師を有するに違いない。あまり探さないでも師は見つかるに違いない、という無思慮な確信をわれわれは抱いている。 曙光 495 前半

師と弟子たち」などで触れていますが、師というものがいた試しがありません。それぞれの分野における「師匠的な人」はいましたが、たいてい偉ぶっている人たちは師に値するほどの人ではなく、一度会っただけで、その人を超えてしまうことがほとんどでした。

言葉に詰まると最後は体育会系ノリでゴリ押すことくらいしかできない洗脳野郎はたくさんいました。

師たるもの

そもそも師たるものは、弟子自体が何かの目的を持っていないかぎり、師弟関係というものは成立しないはずです。

その目的自体が、技術の習得などであれば、簡単に師弟関係が成立するものですが、所謂形而上学的な分野に突入すると、その目的自体が絶対性をもっておらず、目的自体を定めようもなかったりします。

彼らの幸福とは何なのか?

そんな時に目安となるのが胡散臭い言葉で「幸福」などになるでしょう。

何をもってその胡散臭い「幸福」というものを定義するのかによって、狂信に走るか否かが決まります。

ただの「嬉しい気持ち」ということにしてしまえば、それは欲求の充足などでももたらされるため、ギャンブル狂いが「大当たり」をもって嬉しい気持ちという構図が描けるため、雑誌の裏表紙にあるような「幸運を呼ぶブレスレット」などですら論理上は正しくなります。

しかしそれら、欲求の充足や、不安感の解消、という本質を見ぬいたうえで「嬉しい気持ち」というものを考えてみれば、そもそもの欲求自体がない、不安感がない、という状態というものも見えてきます。

条件はない方がいい

「欲しいものが手に入る」とか、「起こった不安を解消する」ではなく、根本から「起こらない」という状態です。

それを見極めるには、どういうプロセスでそれらの衝動が起こっているのかを観察することです。

「そういう気持ちが起こることがいけない」というものではなく、「どうしてそんなものが起こるのか」ということです。

だいたいの胡散臭い「自称師匠」は、「〇〇をすれば」という条件をつけてくるはずです。

拝んだらとかお布施をしたらとか、何かの行動をすれば、何かを唱えれば、などです。

しかし、そのような行動は必要ありません。何かの行動が条件になっているのならば、それは「幸福な状態」ではありません。

それがなければその状態が崩れ去るのですから、その状態を失うこと、その行動ができないことへの恐怖心がいつまでもつきまとうでしょう。

自分を観察することも、別に観察することが必要な条件というわけではありません。

「観察していなければ元の木阿弥」といった性質のものではありません。

ただ、一度でも錯覚のない状態を体感すれば、自ずとそれも理解できるでしょう。

われわれの師 曙光 495


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