われわれのすべてが非理性的である点

われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99

理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。

感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響かないため、経済社会においても感情に働きかけないものは全くに近いくらい売れません。

理性的と言われるような人たちにおいても、よくよく観察してみると単に理屈っぽいだけで、その実、感情に振り回されているだけということもよくありますし、経済社会においては、感情に響かないものはいかに合理的でも売れないということが起こったりしています。

ということで、人々は意外と非理性的であるという感じになっています。

感情に振り回されているだけ

感情で動いている人はすごくエンジョイしているかのように見えますが、あちらこちらで沸き起こる感情に振り回されているだけなのだということを本人は知りません。

感情が昂ぶるものはそれだけで素晴らしいものかのように扱われますが、それほどいいものではありません。

楽しみや豪華さを筆頭に何かしら感情が昂ぶることは全て素晴らしいと言うような論調がありますが、それらは己を苦しめるものともなり得るため万能なものではありません。

セレブ御用達の島

以前、セレブ御用達という謳い文句の島の特集をテレビでやっているところを、偶然にも銭湯で服を着ている時に見ました。

「プールサイドにお昼寝スペースも確保、ゆっくりお昼寝や、読書を楽しむことができます」と自信満々で言っていました。すいませんが「なんだそれだけか」と思ってしまいました。

なぜならそんなことはニートでもしていることです。場所がアウトドアなだけで、やっていることは昼寝か読書なら、そんなところにわざわざ行く必要がどこにあるのか全然わかりませんでした。

視界が開けて水辺ということであれば琵琶湖で十分です。

それどころか宝ヶ池のベンチで十分でしょう。

よい自然と悪い自然

たぶん誰も心底は納得していない読経や説法的なこと

以前、宗教代について触れたことがありますが、葬式やいわゆる法事の時にたまに坊主が説法的なことをしている時があるものの、聞いているその誰もが、全然納得していないようにしか思えない局面があります。

読経というやつなのか、何のお経を唱えている時も漢文みたいなものを変なメロディやコブシをつけられてまず意味がわからないのに、その後に日常語で何やら普段はあまり見聞きしないような話をされて、聞いている方はわかったようなわからないような感じになります。

でもひとまずその場の雰囲気を壊さないように頷いてはいるのですが、全然納得していないというような場面です。

これは会社の朝の朝礼でトンチンカンな上司が雑誌で読んだ「名言」を全然消化しないまま、ひとまずカッコをつけようと演説する光景に近いものがあります。

思想信条、感情の問題を宗教で脅そうとする

しかしながら会社の朝礼では、それを聞いている間もお金がもらえますが、宗教代は払うものです。お金を取られます。

全然意味がわからない上に何も納得していないのに、感情的に「恥をかきたくない」などと思いつつ宗教屋にすごい額のお金を払ったりしています。

それの代金を一部負担してくれという親戚は完全に洗脳されており、彼の思想信条、感情の問題を宗教で脅そう、親戚の仲を人質にとってカツアゲしようとしているのと同じことです。

そんな意味のわからない「寄付のお願い」は堂々と断ることです。断って仲が悪くなるのなら関わらなくていいでしょう。

墓場ビジネスと霊感商法

いざという時に頼ろうという気持ちをなくす

何かの祝儀を自分がもらおう、いざという時に頼ろうなどと思うと断れなくなります。

自由を求めて自分探しなどしなくてもいいですから、少しでも自由の幅を広げたいなら、「いざという時、親戚に頼ろう」という気持ちをなくして、意味のわからない関わりは全て捨てることです。

捨てても何も困りません。困るどころか身が軽くなります。

われわれのすべてが非理性的である点 曙光 99

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ