なぜ「自我」を二重にするのだろう!

他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、― これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること― 同情の哲学の要求であるが―、これはわれわれを破壊に導くであろう。しかも極めて短時間のうちに。 曙光 137 前半

同情と「憐れみ」「慈しみ」などとは若干の違いがあると思っています。

どうしても同情とはどこかしら「憐れみ乞いに付き合う」という要素が含まれている感じがするからです。

その大きな違いは、感情を持つ側の自尊心レベルにあると思います、「自尊心=錯覚」になると、慈しみになると思っています。

そして「なぜ、人をいじめてはいけないのか」なんかで触れていますが、「いじめ=悪」の論拠について、「あなたもいじめられたら嫌でしょう?」というようなものを持ってくることは誤謬です。

善悪という二元論化の上のラベリングの上で判断することは、正しいように見えて穴だらけです。

ということで「いじめと同情」みたいな感じで書いていきましょう。

いじめと同情

いじめの根底には、生存本能的恐怖心があります。そして、その衝動と思考が組み合わさった時に現実となります。

何がいじめをもっとも助長しているか、それはすごく簡単で体育会系です。

体育会系が大好きな上下関係、勝ち負けという世界観こそがいじめの最も大きな原因です。ミスター脳筋こと孔子などは、偉人でも何でもありません。

ミスター脳筋孔子が唱えた儒教は統制のためによく使われますが、それこそが差別の根源であり、いじめの大きな原因となっています。

「先生」という呼称

学校でいじめをなくそうと思えば、まず「先生」という呼称を改めるべきだとすら思っています。

「先に生まれたものが偉い」という、二重の誤謬ですからね。

「偉い」というものを設定することも、その根拠を年齢順にすることも差別になります。

ほら、都合が悪いでしょう?

「先に生まれただけで無条件に偉くいれたのに、そんな都合のいい話を捨てられるわけがない。今までは下側でせっかく耐えてきて、やっと上側になったのに、そんなの手放せるか!」

でも、その「都合」がいじめの根本原因だということに気づくと良いと思います。

君主論から考えるいじめへの対応と対策

「ほめる」ということ

そして、「ほめる」ということもいじめを助長しています。

人を相対化しているからです。

誰かを優先するということは、相対的に誰かを軽視し、後回しにするということです。

テストでいい点を取った人に対して「すごいね」ということを、その人だけにいうのと、同じテストを受けたたくさんの人の前で言うのとは、属性が大きく異なります。

一人に言うと、その他の人全員をいじめていることになるのです。

さて、脱線気味ということで同情の方に移りましょう。

ブスに同情するな

この世で一番モテる女性、それは明るく元気なブスです。

ブスはモテないというのはウソですから、自分でブスだと思っている人は、「かわいくなろう」なんて思わずに、その錯覚を取り払うことに注力してください。

ブスが生物学的に劣っているのなら、劣等遺伝子として既にこの世界にブスは存在しないはずです。それはデブやハゲも同様です。

問題を問題とし、正当性を肯定してしまう

「私ブスだし…」と言っているブスになぜ同情してはいけないのか、それは、「ブスでかわいそう」と同情することで、はたまた「いやいやかわいいよ」と同情することで、そのフィールドの正当性を肯定し、そのフィールド以外に飛び出すことができなくなるからです。それは、学歴的なものなども同様です。

他に代えがたい魅力

あまりに明るく元気で自信をみなぎらせていると、それは他に代えがたい魅力になります。

お金をかけて誤魔化すということができない分野ですから、最強です。

そのうち周りは「ママチャリに子供を乗せて、なんて姿が似合うなぁ」とすら思えてくるはずです。

ブスが「私ブスでかわいそうでしょ…」なんてな嘆きをしても意味はありません。

デブが「デブだから…」と消極的になったら本当に負けです。デブだから負けなのではありません。「デブだから」と消極的になっているのが負けなのです。

「最高にうまいラーメン屋に行こう!」と元気いっぱいのほうがいいに決まっています。

憐れみ乞い

逆にスペック的なもので主張してくる人は寒がられます。

旧帝国大学の国立大学卒にありがちですが、50代になっても名刺に卒業大学を書いていたりします。

その奥には「本当はもっと『すごいですね』と言われるべきスペックなはずなのに、こんなに粗末に扱われてるってかわいそうでしょ…」という憐れみ乞い的なものを感じます。

「今ここで一番モテるのはオレのはずじゃないか!」とすら思っているかもしれません。

名刺のその部分に触れられないと、あげく自分から卒業大学を言ってくる人もいるくらいですからね。

そんな人がモテるはずはありません。

もちろん同情してもいけません。

でも憐れかなそういう人をそういう人にしてしまったのは、先の体育会系教育にあるのです。

だから被害者と言えば被害者ですが、加害者でもない自分が救ってあげる必要はありません。

「そんなことに感情をかき乱されて憐れだなぁ」

そんな感じで思っておくに越したことはありません。

「ブスに言われたくない」

とか

「低学歴のあなたみたいな人に言われたくない」

といったように、変に話をすると、自分が正しいと思っている錯覚のフィールドを根拠に抵抗してくるのが関の山ですから。

人のことは放っておいて、無根拠に自信をみなぎらせましょう。

誰かに勝つ必要はありません。

いずれ周りはその魅力に惹かれ、抵抗勢力は根負けし、気づけば素敵な現実が展開していくはずです。

なぜ「自我」を二重にするのだろう! 曙光 137

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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