つまりは煩悩 苦しさの原因と結果と解消の方向性

煩悩とは一体何でしょうか?

煩悩の解消というと、欲があってそれを解決するには、欲を無くすか、欲の対象を叶えるかというような面で語られますが、そんな単純な雑談程度のものを超えて、苦しさの原因と結果と解消の方向性について書いていきます。

よくよく見てみると単独カテゴリとしては、現段階で、最も数が少ない項目になっています。それだけ安易には触れないでおこうということでしょう。しかしながら、アナリティクスで遊んでいたら、単独ページは閲覧数がそれほどでも、カテゴリおよびカテゴリ別のアクセス数は実は最多であり、「それほどニーズがあるのかなぁ」と思いました。

そろそろサイトも一周年ということで、しばらくこのテーマを集中的に取り扱うことにしましょう(と言ってもおそらく短期間でしょう)。おそらく旧ページにも手を加えていくでしょう。

普通は調べて、転載をするような形のものがほとんどでしょうが、そのようなことはしません。自分の頭の中にある印象や情報だけを頼りに書いていきます。ひとまずはこの一年間に分散した内容の集約的なページにしていきましょう。

世間の情報は、誰かが書いた論文を根拠に素人が書いています。では僕は素人ではないのか。世間的には素人ですが、素人ではありません。認めてもらう必要がないので、アナウンスをしないだけです。社会にはルールや権威のお墨というものがあります。それはある程度の信頼性の尺度にはなりますが、元々は「勝手に変な事をされないように」というものだったのかもしれませんが、どのような社会でも、権威が力を持つと、それはただの大義名分になり利権の担保にしかなりません。

それが証拠にインターネット広告では、「わが子の気持ちを理解するために」という謳い文句で心理学の通信講座や、カウンセリングの資格ビジネスが横行しています。しかしそれらの情報は、誰かの書いた論文をわかりやすくテキストにしたものを元に素人が編纂した教科書で理論的なものを教えているに過ぎません。内容はそれほど間違いではありませんが、浅いものです。

第一に、相手の気持ちを理解するということはいいですが、「理解しよう」という動機そのものが「相手を把握してコントロールしよう」というものです。出だしから間違っています。資本主義としての目線で言えば正しいでしょう。しかし、やはり出だしから間違っています。そんなことより先に自分の心を把握しなさい、という旨で、書庫の心理学を作成しました。

何を根拠にプロや素人という判断をするのか、それはおそらく社会で「お金をとってもいいよ」という目安です。そのような判断のもと、「素人なのだろう」と判断されるのならば、それで構いません。お金をもらうわけでもなし、社会での評価が欲しいわけではありません。もちろん何の責任も負いませんから、ただの雑誌程度だと思えばそれでいいでしょう。それくらいの感覚で、見てもらったほうがお互いに楽ですから、双方にとってメリットがあります。

かつての戒めとして、「説法でお金をとってはいけない」というものが厳しく定められていたそうです。ところが今では、「瞑想体験ツアー」と称して坊主や自己啓発洗脳組が居酒屋の飲み放題付きプランほどのお金をとったりして、人に教えています。

お金をとってはいけない、これはなぜでしょうか。

簡単な事です。いくつかありますが、わかりやすいのは、当の主催者がお金にとらわれてしまうことと、貧富の差で話が聞けない人がいるというのはおかしいからです。出版の場合は出版費用というものがあり、原価や取次、販売などで輸送費・人件費などもかかります。それを「あなたもタダでやってください」というのは厚かましい話です。その際は少し取り扱いが変わるでしょう。

でもやめておいたほうがいいのは、「定められているから」というわけではありません。たまに中途半端に理屈だけわかったような人がその方向に走ってしまうことが予めわかっていたから、一応定められていたのでしょう。

こういうことを言うと「本当に定められていたのか、そうではなかったのか」という議論をしたがる人がいますが、歴史的事実や、後世の解釈など、どうでもいいことです。それはあくまで外部情報に頼っている証拠であり、実際にそういうものがあろうがなかろうが、そのような害のようなものは解釈によらず即時的に出てくるものです。自ら考えず、感じないが故の依存、執着です。

世間では有料プランの方が値打ちがあるかのように思うという傾向がありますが、そういう有償のもの、特に瞑想体験やヨガみたいなものには行かないほうがいいでしょう。そのほうが値打ちがあるという考えは資本主義による洗脳ですから、おいおい勝手に意味のない尺度だということがわかります。

だからといって無償のものがいいというわけではありません。宗教勧誘や悪徳商法の第一ステップとしての囲い込みの可能性がありますからね。

つまりは、有償・無償は関係ないということですが、無償だから大丈夫というわけではなく、また、ひとまず必要経費以外の有償の場合は、素人だと思ったほうがいいでしょう。煩悩の解消に瞑想やヨガなどに手を出す必要はありません。

営利ではない属性のものを営利的に扱う人を信用はできません。患者を薬漬けにする医者然り、意味なく何度も予約を取らせようとする歯医者然りです。

できれば外部情報に頼らず独りで解決することです。いきなりは厳しいかもしれませんが、ひとまずの気力を回復するために外に頼るのはいいでしょう。しかし決して依存してはいけません。

さて、前置きだけで2000字を超えてしまいました。

そろそろ本題に入りましょう。

煩悩の誤解

煩悩というと、ただの欲、貪欲のような印象を得ますが、漢字を見たらそういうわけではないことがすぐに分かりますね。

煩(わずら)う、悩みです。

欲はその原因の一つであり、煩悩そのものではありません。

思い煩う原因は2つあります。正確には3つですが、憲法と法律のように属性が違うので、それは後々触れるかもしれません。

煩悩の原因は基本的に欲と怒りです。

欲は対象が不足しているという渇望感であり、それを引き寄せたい、実現したいという属性であり、怒りは対象が不快であり、それを排除したいという属性を持っています。

その対象は物理的なものであれ、意識の中の物であれ、自分が今認識しているものです。それが今現在見ているものであれ、また、記憶の中のものであっても思い返している間は自分が「今」認識しているものです。

それを認識している時に何かが不足しているならば欲しいと思う、それが欲であり、それをどこかにやってしまいたい、と思うのが怒りです。

  • 欲=対象が自分の安心感や満足感、幸福感の条件として不足している=渇望感
  • 怒り=対象が自分の安心感や満足感、幸福感の条件として、不必要ながら余分に存在している=不快感

たまに「僕はまだまだ煩悩に塗れてるよ」と自信満々にいう人がいますが、それは貪欲な方がビジネスシーンで、「オレはまだまだ勢いがあるぞ!ガンガン攻めていけるぞ!」というような印象を与えたいからであり、欲が強いほうが発展しやすいということを「良いことだ」と思えるから出てくるセリフです。

しかし、そういうことではなくて、煩悩は「煩い悩んでいます」ということです。

ここで、よく説かれるのが

「欲を無くしなさい」

というセリフです。ここで、答えを提示しましょう。

A そんなことはできない

です。

少し考えれば分かるのですが、「欲を無くそう」という欲はどうなるのでしょうか。さあこれで、安易に「欲を無くしなさい」という人が信用できなくなったでしょう。そんな言葉を使う人は、まだまだ錯覚の中にいる人です。習ってきたことをなぞっているだけで、本人もまだ彷徨っています。

しかも習ったことがそもそも間違っていることだったらどうでしょうか。「間違い」をきちんと履修しただけです。間違いであるとわかるには、自分で再現してみて、その限界を超えなければなりません。

では、無くそうと思っても無くならないのかという疑問が起こります。欲があるかぎり、思い煩い続けるのか、ということです。

簡単ですが答えです。

A 錯覚が解ければ、ある程度は自然に消える

苦しさの原因と結果

心というと、心理学といわれるように意識や気持ちばかりのイメージがありますが、認識を受け取る働きです。心理学のテキストには視覚的な錯覚なども出てきます。コンビニで売っている心理学の範疇を超えていますね。つまりは視覚情報をどう受け取るか、というところも心理学です。五感と意識、それが送る情報を受け取っている働きのことをさします。

心はどこにあるか?

A 物理的にどこにあろうが本質的には関係ない

ということです。体のどこにあろうと、関係ありません。感じているのだから、受け取っているだけなのだから、関係ありません。

さて、ここで無視しがちなのが、意識以外の五感です。

心の問題だからといって、体を無視する人がいます。しかし体からの信号も心は受け取っています。24時間体制で受け取っています。

しんどいのに無視してはいけません。どうしてしんどいのでしょうか。しんどさは何かの合図です。意味なく痛くなったりしません。「おい、体として言わせてもらうが、今、体的には都合が悪いぞ!」という合図です。風邪で熱を出した時は太ももに力が入らなかったりしますが、「間違っても出歩くな、意味のないことにエネルギーを使うな」ということです。

その信号は誰が送ってきているのでしょうか。

自分なのに自分以外の存在かのように非言語で訴えかけてきます。あれれ、自分なのにおかしいですね。

自分なのにその信号をコントロールすることができません。信号の発信を止めることはできません。しかしながら受信に関してはコントロールすることができるかもしれません。

意識は五感とは性質が違います。無形であり、自由に操作することができます。しかしながら無形故につかみどころがないかのように思えてしまいます。しかしそんなことはありません。

もっとも厄介なのは、意識の中で、「ある意識を掴めないこと」です。掴んでしまえばコントロールは可能になります。しかし、なんとなく何故かイライラする、その場合は、今現在、暑い・寒い・飲み過ぎたなど、環境によるストレスがないのなら、確実に意識の奥底に何かが眠っています。

その意識の中の暴走、苦しさを与えるイメージに対して、解釈を変えろという人がいますが、その手法は時に使えず、また、後にその解釈変更が原因となって苦しさがやってくるかもしれません。

受験に落ちたということの解釈変更を例にあげると、落ちたことの解釈変更として「自分にはまだ早かった」や「向いていなかった」、「自分の入った所の方がいい」など色々と考えられますが、依然として受験そのものに対する執着と重要度は保ったままです。受験という対象に対して肯定したり否定するような思考は無駄ですから、もっと抽象レベルを上げて考えねばなりません。

受験は必要なことだったのか、という思考でもまだまだ浅いところでしょう。もっともっと大きく考えねばなりません。

煩悩の解消に解釈の変更はいらない

しかし、それでもいいですが、解釈の変更などいりません。そんなことをしていては永久に決着はつきません。なぜならば、それは相対的な尺度からの自己論争であり、どの視点が正しいか、という論理バトルが始まるだけだからです。そのバトルは思考の限界まで続きます。しかし決着がついたとしても何の実りもありません。

しかもそのバトルのさなかは神経が高ぶります。

ここで、そういった論理バトルはやめておけ、で終わりそうなところですが、そんなにブックオフで100円の本レベルの浅い事は言いません。

「やめておけ」と言われてやめられないから困っている。

これはすべての依存症の人が実感していることです。

別に依存症でなくても、癖で貧乏揺すりをする人でも同じです。

ある意味で、煩いは論理バトル依存症です。

好きでやっているわけではありませんが、それが癖になっています。

それが限界レベルまでの論理バトルなら、最後には真っ白になりますからいいですが、そこまでの思考力はなかなか持てるものではありません。

いい加減に自己論争をやめるにはどうすればいいか、それは、非常に簡単です。論理で決着をつけようと思う前に、思いを馳せましょう。

リアルタイムで上映されている映画の主人公が、受験に落ちたシーンが今終わった。

いやいや、おかしいよ、と思われた方は、その反駁の根拠となる論理を是非コメント欄に記載してください。確実にひっくり返せる自信がありますので、挑みたい方はどうぞご自由に。

いやいやバトルがしたいわけではありません。

自分が認識している世界

では、もう少し詳しく。

自分が認識している世界は、現実世界というものがもしあったとしても、それと完全にイコールではありません。自分の五感を通して認識したものと、意識が影響して見ている世界です。せめて五感だけに絞ること、というのはなかなか難しいですが、意識の影響を受けて解釈をした世界を観ています。自分とは独立した世界があろうがなかろうが、自分が今認識している世界が自分の世界だという属性からは切り離すことができません。

しかし、その認識している世界には、意識が影響しています。そしてその意識自体は、幻影のような世界です。ある意識、考え方、解釈の癖が誰かの影響でついて、自分の癖、意識の癖や解釈を形成しています。

しかし自分に影響を与えた人もまた誰かに影響を受けた意識を持っています。出処はわかりません。方向性もありますが、直近に見たものや、今現に見ているものにも影響されています。

出処がわかったところで、それを操作することはできません。できたところで、結果には影響を与えません。

そんな悪者探しよりも、今、自分が持っているその意識だけに働きかけるだけで十分です。

その出処、事の発端は、今の苦しさの直接の原因ではありません。直接の原因とは、それが無くなった時に結果も消滅する対象のことです。嫌いな人は今目の前にはいません。それでも思い返して苦しかったりする、つまり直接の原因は記憶と、その記憶の解釈です。しかし、記憶を消すということはなかなかできません。

ある思考癖、ある思い込み、ある主義、あるこだわりなど、それらがもしなくなれば、意識の結果である苦しさの感情は減っていくでしょう。

記憶×0

もし苦しさを感じているならば、いくつかの原因がありますが、物理的な原因ならば体が反応するでしょう。しかしその対象が「嫌いな人」などであった場合、その人がいま存在していようがいまいが、意識の中で記憶があるかぎり、その記憶も一つの原因になります。

しかしその原因だけでは無く、記憶にこだわりからの解釈などが入ると感情が起こります。苦しさは感情です。嫌だった時の感情が同時に想起されるから起こります。そのプロセスはあまりに早いのでつかみにくいですが、嫌いな人の顔が浮かんだところで、それはタダの顔です。そこで思い出の解釈を変えるという試みが提唱されますが、そんなことはしなくても構いません。

どのようなことを認識しようともゼロを掛けることです。つまり記憶を消すことでもなく、解釈を変えてプラスにすることでもなく、無効化すればいいだけのこと。別に無効化しようとしなくても、極めて臨場感のある映画のワンシーンだとわかれば、勝手に無効化されます。

ジャッジの基準

悪者探しをして、自分を正当化するという試みも同様にしなくてもいいことです。悪者の判定、自分の正当性を誰に訴えかけるつもりでしょうか。それが世間なら、世間の基準の中で彷徨っています。永久に世間感情に振り回されます。それは自分にでしょうか。もし自分で自己説得を行っているのならば、その倫理観の基準は誰が決めているのでしょうか。もしその倫理観、ジャッジの基準が社会的な正当性の場合は、自己説得、自己完結のように見えて、社会に振り回されています。つまりは洗脳の中、錯覚の中、どこにも自由はありません。

誰に何の説得をして、そのジャッジによって何が変わるのでしょうか。世間を説得しようとしても、世間には主義があり、感情で動いています。説得する相手によって白とも黒とも言われるのがオチでしょう。相対的なジャッジには意味がありません。社会での取り決めごとでは意味がありますが、自分一人でそれをやっても意味はありません。

自分を説得、正当化しているように見えて、社会などの虚像を相手に戦っています。相手は虚像なのだから、勝っても意味はありません。勝たなければ出来ない、と思っていることは、勝てばできることです。しかしそれは行動としては勝たなくても可能なことです。行動として可能なことならば、ジャッジは必要ありません。自己論争をバイパスしてもやればできることです。

結果の操作

何でもそうですが、苦しさには原因があります。原因と条件が揃わなければ結果は生じません。しかし起こった結果を操作しても、それが次の原因ではない場合、意味はありません。

机からコップを落としてコップが割れた、割れたコップが次にコップを割る原因になるのなら、それを何とかしなくてはなりませんが、コップが割れたことは次に違うコップが割れる直接の原因にはなりません。しかし割れた破片でけがをするかも知れませんね。その場合は破片を片付けて終了です。

しかし、苦しみに悶える人は結果を操作しようとしています。割れた破片をかき集めて瞬間接着剤で何とか元通りにしようとしているようなものです。元のような形はしていますが、元と同じコップではありません。隙間だらけで水は漏れ、そのコップで無理やり水を飲もうとでもすれば、くっつききれなかった破片が喉に刺さるかもしれません。

そんなことをするよりも、素早く捨てて、必要ならば新しいものを買えばいいでしょう。思い出の品だからといって、捨てずにおいておいてもケガのもと、もし捨てて運良くガラス回収業者に渡れば、形を変えてまたどこかで現れるかもしれないものを、永久にケガのもととして置いておこうとしているようなものです。

解消の方向性

原因を消すということですぐにやってしまうのが、原因を物理的に操作しようとすることです。棘が刺さって痛いから棘を抜いた、など、体の問題ならばそれでも構いませんが、それ以上のことをしてはいけません。

煩悩を解消しようと、欲に対応する煩いであれば、それを何としてでも手に入れようとし、怒りに対応する煩いであれば、相手を傷つけるということをしてしまうのが普通です。

嫌いな人がいるから、その人に暴力を与える、というようなことです。それをしても、相手が苦しんでいるという情報が意識に入ってくるだけで、根本的には何の解決にもなりません。そして何度か触れていますが、相手の状況が変わらないと自分の気分も変わらないということであれば、自分の気分、意識は相手のコントロール下にあります。相手の状況で自分の苦しさが増してしまうのだから、その方向性は間違いだと言い切っていいでしょう。

そんな相手に対しての考え方はただひとつ、その人はいつか死にます。別に悪いことをしているからいずれ裁かれる、とかいうものを無理に思い込もうとしなくても、確実に死にますから安心してください。

そして、自分より長生きしそうだ、と思っても、一生その人と会わなければ死んだのと同じことです。ずっと「アイツはどこで何をしているだろうか?」と悶々としていて、10年前に死んだことを聞かされた時、その空白の10年は一体何なのでしょうか。

相手の存在自体は、自分の認識の中で起こっています。相手の死を定義する時、自分の世界に入ってこないこと、という感じで定義しておけば問題ないはずです

ということは、すでにこの世にいないと仮定して過ごしてもいいはずです。なぜなら、今、自分が感じている世界以外に現実というものはありません。

例えば今この瞬間で、世界の何処かで何かの大ニュースになるような出来事が起こっていたとしても、そのニュースという情報が自分の世界に入ってくるまでは存在していないのと同じことです。

事の後に情報として入ってくるだけです。

入ってきた時点の瞬間に、それが不確定不確実で、仮定の事実だとしても自分の世界にイメージとして入ってくるだけです。

じゃあ、もしばったりその「嫌いな人」と道端で会ったとしたら、その時に一瞬自分の世界に入ってきたということであり、視界から消えれば、また同じように死んだことにしておけばいいのではないでしょうか。

もし本人かどうか確認できなかった場合は、他人の空似だ、という設定をしておきましょう。そのように設定してもいいはずです。

なぜなら、自分が今感じている世界だけが世界なのですから。

唯物論的な解消法では限界がある

薬を用いる方法論も原因に対して、働きかけるというものです。確かに苦しさの原因となる作用が物理的に起こっていて、それを解消するための働きかけとして、薬の力を使うという方法自体は結構です。それはそれで結構ですが、なぜ苦しさの原因となる作用が物理的に起こっているか、という原因の方には働きかけていません。

ある原因が、ある物質的な働きを呼び起こしています。そして物質的な働きを物質面で抑制しようという方法論です。それで確かに苦しいという認識自体は取れるでしょう。

しかし、どうしてそういう物質的な働きが起こっているかは、何も説明していません。そしてそういう働きの根本原因に対しては何の働きかけもしていないということです。

そういう時の言い訳が

「精神的なもの」

「ストレスが原因です」

というものです。何の説明にもなっていない上に、そんなことは本人も知っています。ではその物理的な働きそのものの原因に対してはどうやって対処していけばいいのか説明できる人に会ったことがありません。そこを必ずパスして薬だけで何とかしようとする人がほとんどでしょう。

そのせいで数年間苦しむ羽目になりました。お陰で読書量は増え、無駄に知識も増えてしまいました。

「私がその『説明できる人』だ!」と自尊心を満たすために声高々に叫ぶ人はいましたが、全然説明になっていませんでした

世の中の全てを把握する必要はありません。知っていても何の役にも立たないのならば、手間の分だけ徒労です。しかしながら、ずいぶんと遠回りをしてしまいました。その時にわかったことは、うつが治る時は一瞬で治るということ、そして、治ったかのように見えてフタをされていただけ、という状態もあるということです。

結果である苦しさの物質的作用に対しての対処法は、次から次に出てくる葉っぱを摘んでいるようなものです。うまくいったと思っても、枝を切っただけで、季節が変わればまたその枝は伸びてくるかもしれません。やはり根ごと抜き取らねばなりません。

ただ、根を抜ききる前に枝や葉っぱが邪魔で、根もとにまでも近づけない時もあるでしょう。その時に葉を摘み取ることに異を唱えるつもりはありません。

それでは休まるはずもない!

たいていそういう場合は休養しなさいというようなことが説かれますが、布団にうずくまっていても、外からの刺激のない分だけ、嫌な思考がたくさんめぐります。

体からの影響も考えねばならないので、栄養の摂取と体を休めるということは大切ですが、「布団の中にいる」ということはかなりの危険を呼び起こします。

たまに音楽やテレビをつけっぱなしで無いと眠れないという人がいますが、あれは、刺激が止まってしまうと思考優勢になって、リラックスできなくなるので、本来は刺激が少ないほうがいいのに、思考の邪魔になる刺激を与えている方が、「まだマシだ」ということになっています。

それを、「刺激が少ないほうがよく眠れる」と一元化して人に説く人は危険です。では、刺激が少ない状況で、思考に襲われることを解消する方法を知っているのか、ということです。

すいませんが横になることよりも、座っていてでもリラックスしていることの方が大切です。

休養イコール必ず回復、というのは体です。しかし、体がリラックスしていない状況でいくら休んでも、どんどん思考が悪循環して回復どころではないくらい疲れる事があります。

これはただ単に「休め」という人が、鈍感な人だから出てくることです。脳味噌が筋肉でできているような人はこういったことを言いますが、そういう意見は無視しておきましょう。

ただ、テレビの刺激がある方が眠れるからといって、いつまでもそんなことを続けていてはいけません。

ずっと布団の中にいるよりは、植物園か動物園にでもいって帰りに温泉でもつかったほうがマシです。ある程度日を浴びて、体を温めて、体が冷えてくると一気に眠気が来ます。

いくら寝ても、「コーヒーを飲み過ぎた時のような体の重さ」を感じている人は、そういうことをしてみてもいいかもしれません。

掃除など、軽い作業をすることもいいでしょう。特に汚れた部屋は空気が淀んでいます。早朝に窓を開けるとよくわかりますが、実際に部屋の中の空気が「重たく感じる」はずです。ただでさえ閉めきっていると二酸化炭素濃度が高くなり、重たく感じます。そこに塵埃があると体はもっと重みを感じます。重みを感じているということは、実際に「重い」わけですから、軽くしましょう。

掃除が偉いとか、美徳というわけではありません。窓を全開にして掃除機をかける程度でもかなり変わります。

大体風呂にはいると体は軽くなるものです。この「軽い」という感覚を大事にして、「だるく、重い」ものを軽くしていけるものであれば、それが入浴であれ、掃除であれ、気が向いた時に改良していけばいいだけです。

ゲームの経験値稼ぎだと思えば簡単です。

。。。

そんなこんなで字数が10000を超えてしまいました。

ひとまずここで一旦区切ることにします。


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