そんなに重要ではない

人の死を見守ると、われわれには通常ある考えが浮かぶが、われわれは直ちにその考えを作法通りという不適切な感情によって心の中でおさえつけてしまう。すなわち、死ぬという行為は、一般に畏敬の念で主張されているように重要であるのではなく、また死んでゆく人は、彼がここでまさに失おうとしているものよりも、おそらくもっと重要なものを生きている間に失ったことであろう、という考えである。結局はここではたしかに目標ではない。― 曙光 349

おじいちゃんやおばあちゃんが死んだ時、意外に涙は出ませんでした。

人生で一番泣いたのはインコのピーコさんが死んだ時です。

もう十年ほど前のことですが、それからと言うもの最号泣記録は更新されていないどころか、何が起こっても特に涙すら出ません。

やはりこの年齢になると、親戚もちらほら亡くなっていきます。毎度葬式の度に亡骸を見ますが、やはり特になんとも思いません。

身の回りの人や動物などとの死別に関すること、ということで、愛別離苦やおじいちゃんが亡くなった時のことについてでも触れていきましょう。

愛別離苦

生きていると、たくさんの苦しみがあるどころか苦しみしかありません。

「生老病死」と言われるもの以外に、といってもこれに含まれているようなものですが、「生老病死」以外の苦、五蘊盛苦、求不得苦、怨憎会苦、 愛別離苦、その中でも自分がいちばん苦しむのがどれかは自分でもわかっています。

それは愛別離苦です。

おそらく、執着をなくしたつもりでも、愛するものが亡くなったことを自分の頭が事実として認識というか解釈をした場合、嫌でも爆発的な感情が自動的に自分の心を襲うでしょう。

それをずっと引き摺ることはありませんが、その時、必ずと言っていいほど、激しい感情が自分を襲うでしょう。

頭というのは勝手なものですが、亡くなる瞬間にまで立ち会うと感情的になるものの、たとえば自分が仕事で1週間出張に行っている間に誰かが亡くなり、その間そのことを誰からも知らされずに、出張から帰ってきてそれを知った時は、少し感情の種類や力が異なってしまうという曖昧なものです。

これはあくまで、今自分が勝手に想像していることです。

しかも、おそらく相手が人間だと、そこまでなんとも思わないのかもしれません。

実際におじいちゃんが亡くなるときは、非常に理性的で冷静だったのを覚えています。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

おじいちゃんが亡くなった時

おじいちゃんが「もうそろそろだ」という時、案の定病院に親戚がたくさん集まっていました。おそらく十人以上、いやもう少しいたかもしれません。

亡くなる少し前、なぜか僕はおじいちゃんに指名されました。

他の人は全て部屋から出て行って、僕とおじいちゃんだけになりました。妻たるおばあちゃんすら出て行って、僕とおじいちゃんだけが病室に二人きりになりました。

「bossu(本名)いてて!」

と、おじいちゃんは目を充血させ、まるでお化けに襲われたかのように悲壮な様子で懇願していました。

「この期に及んでも、死ぬことが恐い」

僕の手を握ったおじいちゃんは、まるで子供のように、お化けに脅されて「お父さんに守って欲しそうな、か弱い子供」のように、訴えかけるのでした。

ちなみにこのおじいちゃんは、母子家庭で育っています。

ひいおじいちゃんは、警察に勤めており、戦時中のことですが、何かの訓練で打ち所が悪かったため、おじいちゃんが二歳の時に亡くなっています。

どこかそのひいおじいちゃんに近いものがあったのでしょうか、もしかしたらずっと想像を膨らませていた「父親像」を、僕の中に見たのかもしれません。

「行かんといて!」

手を握ったままでしたが、おじいちゃんは叫びました。

何度も叫びました。

相変わらず部屋には二人しかいません。

おじいちゃんの声を聞いて、親戚一同が部屋に入ってきました。

するとおじいちゃんの心拍数は180を超え、どうやら意識を失ったようでした。

それからおばあちゃんとバトンタッチして、僕は家族と別室で待機することになりました。

それから数時間経ちましたが、意識は戻りませんでした。

すると家族の誰かが

「死ぬのを待ってるみたいやから帰ろう」

と言いました。

そして、僕は最期を見届けること無く、病院を後にしました。

帰り道も、僕はどこまでも沈黙していましたが、しかし考えていたのはおじいちゃんとの思い出ではありません。

もちろんその翌日くらいから通夜、葬式がありました。

おじいちゃんの子である父も、おばあちゃんも、おじいちゃんのお姉ちゃんなども泣いていました。

しかし、その時、僕はもっと冷静に考え事をしていました。

「みんな人事のように思っているが、これは人事じゃない」

みんなおじいちゃんへの思い出でいっぱいでした。

しかし、白檀の香り漂う中、おそらく自分だけは違うことを考えていました。

「自分にもおじいちゃんが経験したような、あのような感情が襲ってくるかもしれない。そしてもちろん自分も死ぬ」

そんなに重要ではない 曙光 349

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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