その幸福もまた輝かせる

実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561 前半

生きていると「嫌だなぁ」と思う瞬間も多々あります。しかしながらそれがコントラストとなったり、また、新しい意図のきっかけにもなります。

嫌な上司にあたると、その上司との関係性を良好にするにはどうすればいいか、叱責を何とも思わなくにはどうすればいいか、上司を降格させるにはどうしたらいいか、転勤するにはどうすればいいか、といったことを考えたりします。

しかしながらそんな経験は、「上司がいる働き方」を選択している事自体に対する疑問のきっかけにもなります。

確かに嫌な上司は嫌な上司です。好きになる必要も認める必要もありません。

「自分を叱ってくれるほど気にかけてくれている上司がいるなんて幸せだ」という変なポジティブシンキングも結構ですが、それではただのカルトにハマった人のようになってしまいます。

ともすればすべてをポジティブに考えるというようなことを言う人がいますが、そんなことはしなくて構いません。

嫌なやつは嫌なやつです。あなたが思った通り、ロクでもない人間なのです。

それを「肯定的に捉える」という場合に、自己欺瞞的にその人を評価する必要はありません。

「その嫌な上司はあなたが呼び寄せたものだ」

そんなことを言う人もいます。

それは確かにその通りですが、あなたに問題があって現れたわけではありません。

といってもそれは結果です。

では問題を解決するにはどうすればいいか、ということを考える方向に行きそうですが、問題は解決しなくても構いません。

なぜなら、過去からの延長である結果を問題として操作しようとするよりも、次に何を選択するのかを決めることのほうが重要だからです。

「無い」という前提、「ある」という前提

次に何を選択するのかを検討する場合、多くのケースでは「無い」を前提としています。というより99%以上が「無い」を前提としているでしょう。

これをひっくり返して「ある」という感じで前提をひっくり返した場合、見えるものが著しく変化するはずです。

換言すれば、渇望から「手に入れる」という視点で見るのではなく、すでに充足というか満足した状態があるという視点で見るということです。

そうすると、「何が足りないか?」というよりも「何が障害になっているか?」という目線になるはずです。

それは現実的な障害というよりも、「何が盲点となっているか」であり、「ある」ことを前提とするとそれが露見していくという感じです。

そこでだいたい躓くのが、今現状の延長で「頑張った先にある」と思ってしまい、結果的に不足をベースに考えてしまうことです。

そうではなくて、既にその状態は「ある」ということです。そこを発端として、それを見えなくしているものを暴いていくというアプローチです。

それは似ているようで、本質が全く違います。

そしてその状態は、現在の延長の「改良」ではありません。

現在の延長としての改良といえばそのように捉えることもできるかもしれませんが、今ある不足感、不服感の克服や改善というような形ではなく、ゼロスタートです。

いちいち頭で「今まで経験した嫌なこと」を思い返さなくても、それが嫌だということは体感の記憶として、無意識レベルでは知っているはずです。

そしてそのコントラストとして何が自分にとって快適かということも、同じようにいちいち検討しなくても無意識レベルで知っているはずです。

せっかく無意識レベルで「どうありたいか」は出来上がっているのに、それほど回転もしない表面的な頭で最適なものを無理やり選ぼうとしているはずです。

だから、ただ力を抜くだけで良いのです。

そして、自分の経験の可能性を自分で許容することです。

まるで幼子のように。

不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み

ゼロの錯覚

その幸福もまた輝かせる 曙光 561

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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