じゃまくさいが正しい 改

豊かな国のはずなのに、未だに長時間労働が当たり前になっているにはいくつかの理由があるとは思いますが、その中でもかなりのムダがあります。それは無駄な書類です。

たいていは上司がそのまた上司に言い訳するために作成したり、「こんなに簡略化するなんて失礼だ」という思想が無駄な紙の消費を促しています。すぐに捨てられたり、一生読み返すことのないような書類の作成に相当の紙と人手が無駄に使われています。

会社の役所関連への提出書類など、住所と名前と社印以外に記載することといえばほとんど数ヶ所に数字を入れるだけ。職員に聞きながら書けば2分くらいで終わるものを、その説明書きの冊子は数十ページに及んでいたりします。

また、せっかく時代が進んでもう進化も限界の領域に達しているのに未だに改善されない点があります。服のタグと、「紐」です。低価格の実現やデザインに凝るのもいいですが、そんなことよりまず改善すべき点です。いつまでたっても直そうとしません。洗濯の度に紐を引っ張り直さなければならないのをどうにかして欲しいですね。

じゃまくさいの原因の全ては「自分」というものの存在をあまりに重くおいているからですが、「礼儀」というものも相当にじゃまくさいものです。体育会系が最も好むものの一つですが、この礼儀のせいで、世の中の回転が相当鈍くなっています。あの人よりは上、あの人よりは下、という発想自体が苦悩の元凶です。

もともと相手への配慮という愛情だったものが、転じてそれが必須となり、守られないと怒り出すという自体を招いてしまいました。礼儀などがなかった時代にはフラット(期待なし)にプラス(ちょっと嬉しい)されるような属性のものが、マイナス(されて当然という前提)にプラスされて、いいところちょっとプラス、たいていはフラットということになってしまいました。

僕はインターホンを鳴らされて、返事をしないまま玄関に出てくる人の気持ちが分かりません。礼儀とかではなくて、いるのかいないのかわからないので、帰ってしまうかもしれません。帰ってしまってもそれは文句が言えないはずなのに、「いたのに」と返してくる人の神経がわかりません。本当に一瞬で出てくるのならまだわかるのですが、こういう類の人は自分が訪問者の時はどうしているのでしょうか。いまだにわかりません。

昔何かで読んだのですが、親に頼みごとをされて返事をしなくてもいいような家庭と、返事がないと怒られるという家庭があるということを知りました。返事がないと怒られるような家庭は、商売人が多いようです。それはそれでいいのですが、最近前者のような家庭で育ったのか、バイトの店員でも返事がない人がいます。意思が伝わっているのかわからないので、確認してみると「なぜそんな確認をするのかわからない」というような態度をとります。返事がないから伝わっているかわからない、なので確認をしているのですが、当の本人は自分の中では完結しているので、不服そうです。店長を呼び出して、とまではしませんでしたが、帰りにこっそり伝えておきました。雇い主は大変ですね。うちなら即座にクビかもしれません。そんなことを逐一思うこともじゃまくさい、また、相手を変えようとしているわけではありません。双方のための確認です。

じゃまくさいを利用する

じゃまくさいという気持ちは、不快なものですがそれだけにとどめてしまうと本当に不快なだけになってしまいます。

じゃまくさいと思うからこそ、対極が見えたり改善策が見つかったり、もっと楽しい過ごし方をみつけられるものです。

とにかく不快だからとフタをするように人に丸投げするようなタイプの人もいます。そういう人はかなりもったいないことをしているという場合があるように思えて仕方ない時があります。一度や二度は直視して見ると生産効率などが飛躍的に上がる可能性もあるのに、ひとまず丸投げします。そして生産効率だけでなく人望も信用もなくして後から「なんでだろう」と考えるようなことがあるようですが、そんなことは考えなくてもすぐにわかる話です。

ピンチはチャンスという言葉はよく見聞きする割に、じゃまくさいは「ピンチ」の時ほど急迫性、突発性などがないため、あまり話題にされません。じゃまくさい、そう思ったときは今一度利用すべきものなのだ、ということを考えてみてもいいかもしれません。じゃまくさいがもたらしてくれるコントラストが人生をより彩ってくれるかもしれませんね。


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