お世辞屋に寛大

飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気付かれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることである― 全く寛大でいることが出来る神のように。 曙光 300

お世辞屋の風土 曙光 158」、「犬にお世辞 曙光 258」と、お世辞屋、お世辞というのもよく出てきますね。ただ今回は、お世辞屋がメインというより野心家が主体となっています。

寛大かのように自分を偽り「お世辞」を言ってくる人にも「ありがとうございます」と言ってその野心を隠すという野心家の寛大さです。

「ありがとうございます」ならば、まだマシですが、「光栄です」とは一体どんな意味なのでしょうか。

権威のお墨がついた、そしてその権威をタダの野心の踏み台にしている上に、その野心を悟られないように寛大に装うという醜悪さです。

「お世辞を言ってやってんのに!」への対応

事実以上のお世辞を言う、「お世辞屋」には人間軽蔑をよせても構いません。

そこで、

「お世辞を言ってやってんのに!」、「褒めてやってんのに!」

という態度をとったらならばそれは自分と相手を騙そうとしていたということですから、もっと軽蔑しても構いません。

下手に装飾品などを付けていると安易にそれを褒めてきますから、それは相手に隙を見せることになります。

「ああ、この人はここを褒めて欲しいんだな」

と、お世辞屋に思われてしまいます。

特に営業の仕事をしている人は、「良いところを見つけて褒めよう」という「教育のような洗脳」をされていますから、何かしらそうした隙をついてお世辞を言ってこようとします。

その行動パターンや心理の奥には、「自尊心を満たしてやれば、財布の紐は緩むだろう」という助平心があります。

「暖簾に腕押し」のススメ

どうせなら、意図的に「褒められポイント」を作って褒めさせてみてそのお世辞を「暖簾に腕押し」対応するのも面白いかもしれません。

お世辞を言いやすいように、あえて見せるように褒めポイントを主張しておいて、実際にお世辞を言ってきたらスルーするという遊びです。

しかし、相手を傷つけたいわけではありません。

お世辞屋も野心家も、本能に駆り立てられて、暴走した思考に、騒ぐ感情に振り回されているだけの彷徨い人です。

特に営業の仕事をしている人であれば、上司に洗脳されている可能性があります。

慈しみの心を持って、「そういうの寒いねー」と言ってあげてください。

お世辞屋に寛大 曙光 300

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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