うめあわせの良心

ある人間が、他の人間にとってその良心となる。そしてこれがとくに重要であるのは、他の人間がそれ以外の良心を全く持っていないときである。 曙光 338

互いに埋め合わせる、というような時は、互いに穴があるということです。仕事上の向き不向き、得意不得意を埋め合わせる位ならいいですが、心にぽっかり空いた穴を誰かに埋めてもらおうとしてはいけません。

その穴は虚像です。それまで得てきた情報から弾き出した不足の想像であり、そんな穴はどこにもありません。

それが愛であれ、友情であれ、温もりであれ、不足を見つけてそれを埋めるというのが世間一般の方法論です。

根本的な渇望感、渇愛という虚像を全く問題視せずに、それを埋めるのが当然だとすらする風潮があります。

~活動やライフスタイルという扇動

就活、婚活、といった○○活動というタイプの広告屋の扇動によって、近年それが加速するようになりました。○活と略されるようなこの手のものは、社会的洗脳や扇動によってもたらされており、社会に飼われている側の人を対象としたようなものとなっています。

一方で「ライフスタイル」という言葉で、異なる消費活動を促そうという流れもあります。ライフスタイルという言葉が、他人を気にしないという意味を含んでいるのならいいのですが、他人に自慢しようという要素を含んで解釈されると、それが原因で苦しみがやって来ます。

数値で判断する傾向

さて、就職活動などでも、ひとまず相手を数値化して判断するという手法が繰り広げられています。婚活と言われるものも「スペック」などという言葉が使われたりして、数値で「判断」しようとしています。

シミュレーションゲームならそれで構いません。勝つことと、その後の実績(コインの数)などだけが目的です。ある種ゲームの中には感情はありません。わかりやすい世界です。

しかしながら働くことや結婚することなどは、一種のコンバージョンがあれば、それで終わりかと言われればそうではありません。それまでのデータを元にした成約、その瞬間の約定で終わる話でもないですし、数値化できない部分が多くあるからです。

モノの売り買いなら、安く買って高く売る、で、差額で利益があればそれで良しです。その他の経費を差し引いても利益が残るならそれで構いませんが、人間の生活というものは、単純に数値で測れる側面と、無形で数値化できない側面があります。

無理やり数値化することもできますが「満足度」というわかったようなわからないようなものです。

無形で数値化できない側面

それらが複合的に絡み合っているように見えますが、本来は数値で測れるような金銭や様々なものの質であっても、その効用を享受しているのは無形で数値化できない側面のほうです。

物理空間やお金などの情報空間を媒介して、感じているにすぎません。

ただ、媒介しているだけで全てが情報といえば情報です。

物は情報ではないという人がいますが、物が実在していようがいまいが、それを見たり、触ったり、使ったりして、その物を認識して機能を使用しているにすぎません。

その時は視覚情報、触覚情報、そして、それを使った時に生じる、自分の周りの物理的変化やそのスピードの変化くらいしかありません。それを感じずにどうやって認識するのでしょうか。五感以外の認識があるとすれば妄想くらいです。

そういうわけで、今この瞬間の「ある状態」という情報です。その情報を感じて、どう感じているか、くらいのものです。

うめあわせの良心 曙光 338

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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