いわゆる高級!

諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139

何かを判断しようと思うと基準が必要になり、その基準はその枠内以外にしておかないと、判断がおかしくなることがよくあります。

いわば内輪判断では、無意識的に恣意的な判断をしてしまうことがありますし、論理上でも集合の外側でないと集合の内側はしっかりと証明することができないのです。

だからこそ社会的な評価においては「客観的な評価」が重要になってきます。

恣意的なランキング

といっても、世間で行われている「ランキング」などは全然あてになりません。

基準となる投票を行う人を限定してしまえば、自ずと恣意的なランキングを作れてしまうからです。

少なくとも、僕は投票行為に参加していないという状態で、「ランキングを提示されても…」という感じです。

以前にも触れましたが、都道府県観光知名度ランキングなど、どうして北海道の都市が軒並み上位なのかが不透明です。

投票結果自体を操作しなくても、「誰に聞くか」というところを操作してしまえば、いくらでも操作できるのです。

隠れた選択肢

大体の場合、人は物を選ぶ時に、比較基準がないと選べません。

しかし、「そもそも選ばなくていい」というのも選択肢です。

また、「半分もある」と「半分しかない」という二択の選択肢の中には「半分ある」という第三の視点が隠されている場合があります。

WindowsかMacかの間には、Linuxや「コンピュータを使わない」という選択肢が除外されています。

そういうわけで、最も忘れられているのが、「必要がない」という選択肢です。

進学か就職かというのも、本当はそれ以外のものもあるのに隠れいてます。

「事実はあったんですか?無かったんですか?」というマスコミノリです。

といっても何かを判断する場合には、概ね何かの基準が必要になります。

特に誰かとの合議などの際には、たいてい相手への説得の必要があります。

ところが、そうしたある種共通認識の基準自体が、朧気なものである事が多いのです。

どのような基準を元に判断するか

何かを判断しようと思う時、どのような基準を元に判断しようとしているのかをつかむだけで、変な選択をさせられるシーンは激減します。

そしてランキングそのものにも価値を与えてはいけないのです。

あるランキングに苛立ちを覚えるということは、その基準に対する抵抗があります。

そして抵抗を持っている間はある種相手の権威を認めているということになりかねないのです。

そういうランキングを採用している人を信用しない、ということから始めてみましょう。

「自分がランク外になっていてスネている」と判断してくる人もいるかもしれませんが、抵抗すること無く、そういう人との関わり合いを無くしていくことです。

わゆる高級! 曙光 139


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