いわゆる古典教育

われわれはあの詩を、しばしば感動して真に受ける。
「運命よ、お前に従おう!
心のすすまぬときも、そうしなければならぬわたし
吐く息も悲し!」 曙光 195 序盤抜粋

どうしても何となく調子が悪い時があります。そうした時には「風の流れが変わるのを待つ」ということをした方が賢明です。

風向きが悪い時に踏ん張り続けるとロクなことがありません。

しかしながら「待つ」というときにもやることはあります。

それは、ひたすら気を落ち着かせることです。

一ミリでも気分が良い方向に向かうように舵だけは切らねばならないのです。

仕事の時に、「3時間くらいパソコンの前に座って、結局何も進まなかった」という経験がよくあります。

しかしながら、裏側で何かは進んでいるのです。

知的労働部分が多い人達

世の中では何か作業的なことをしていないとサボっていると思われるフシがありますが、役職が上に行くほど作業的なことはさておき、方針の決定であったり企画であったりと情報を扱うことが多くなってきます。

ほとんどの会社で許されはしないと思いますが、そうした役職にいる人ほど、無理はせずに勤務時間中に散歩をするくらいの方が良い結果が生まれます。

一番良いのは、結果を年単位くらい大きく見積もって、その間のプロセス的なことには評価を置かない、という感じです。

優秀な営業さんほど、結構仕事をサボっています。映画を見に行ったり、寺に行ったり、家で寝ていたりします。

それを「何サボってんだ」とするのはやめておいたほうがいいのです。

なぜなら、家や映画館でリラックスしている間に無意識的に仕事をしているからです。

できない管理職ほど、そういう人がより多くの時間を働けば数字が伸びると思っています。発想が公務員的で共産主義的です。

単純作業ならそうなのかもしれませんが、いわば知的労働部分が多い人達にとって無理強いは禁物です。

なぜなら、そうして無理強いすることで「仕事をしているように見せかけて上司を騙す」ことにばかり頭を使うようになるからです。

だから本来は柔らかい気持ちで、「年単位での結果」を見て評価するという感じにしておいたほうがいいのです。日々の一つひとつの動きは特に気にしなくても構いません。

無意識で働く

僕は頭を働かせるために本を読んだり、ブログを書いたりしていますが、頭を働かせるために温泉に行ったり旅に出たりもしています。

「頭を働かせるために本を読む」というと、新しい知識を得ようとしている行動にも見えますが、そうした動機は1%位で、本当の理由は、今あることを意識の中で議題に上げず、無意識に働いてもらうために本を読んだりしています。

仕事であれ何であれ、「集中する」ということ自体は、一応幾つかの分類があります。日常の「集中」は、大きく分ければ、それを無意識に保持しておくことと、今現に焦点を当てるということです。

ここで言う無意識を考える際には、「今現に焦点を当てている」という状態が「意識」でそれ以外が無意識だと考えておいてもらった方がわかりやすいかもしれません。

車の運転技術の習得であれ何であれ、初心者のころは意識的にその動作に焦点を当てて、一つずつの動作を覚えていきますが、熟練ドライバーであれば、いちいち一つずつの動作に焦点を当てて運転はしていないはずです。

無意識で働くというのはそれと同じことです。

ただ目的地だけを確かめたら、後はほとんどオートマのはずです。「左右確認」というような標語を意識しなくても、交差点に立てば左右を確認しているはずです。わざわざ計器を使わなくても、「ちょっとブレーキがおかしい」というようなことにも気付くはずです。

運転していると、たまに意識的に焦点を当てる時もありますが、そのほとんどすべてが無意識で行っているはずです。

電車に乗って家に帰る時も同じように、ほとんどの物事に焦点を当てずに帰っているはずです。

つまり日常の動作など大半が無意識的な動作になるはずです。

だから仕事も無意識でいいのです。

無意識的に焦点を当てていること

そこに他人からの強制というようなノイズが入ると最適化されません。

そして無駄に無意識的に焦点を当てていることが多ければ多いほど、ムダも多くなってきます。

ゲーセンとがまぐち」で触れていますが、置き引きにあって「財布なし」になり、警察に行ったり銀行に電話したりと一段落終えた後、妙に気が楽になりました。

つまり、全く意識には上がっていませんが、無意識的に緊張していたということです。

「財布を持って歩く」という一見何気ない日常であっても、無駄に緊張しているのです。

そうした意味で言えば「出家」は究極です。私的財産を持たないことで、そうした緊張は全てなくなります。

意識的にはそれほど「気にしていない」のですが、あの緊張の弛緩具合を経験してからは、普段無意識に持った緊張というものを突きつけられた気がしました。

そういうわけで、自分では意識していなくても、焦点を当てている事柄がたくさんあります。無意識的に焦点を当てているからこそ、「あ、財布がない」ということにも気付くわけです。

緊張とのセットにはなりますが、この性質を逆に利用すれば、仕事でもなんでも勝手に無意識が働いてくれます。

あることに焦点を当て、いわば目的地をセットすれば、それに必要なすべてを集めるようになります。

そういうわけで、意図が発生すれば自動で展開するのです。

邪魔をする「意識」

せっかく無意識が上手く働いてくれているのに、それを邪魔するものがあります。それが表層上の意識です。

そしてそうした意識が働き、無意識の邪魔して最適なルートから道を外していくことがよくあります。

そんな邪魔をする「意識」を沈下させるのが、「祈り(笑)」や「お勤め(笑)」です。

宗教の多くはそうした祈りや勤行のようなものがあります。そうして、「自分以外の大きな力に身を委ねる」という状態は、自分の意識を沈下させるという状態になります。

だからスッキリもしますし、物事がうまく展開することもあるのです。

概ね無意識レベルでセットした意図の裏には緊張があります。その緊張だけをうまい具合に取り除くのが、そうした祈りのようなものです。

意識から無意識になり、そして無意識の意図と緊張のうち、緊張だけが取り除かれ、純粋な意図となるという形です。

そうなると意図が現実となるように目の前が展開していきます。

しかし祈りは条件ではありません。

「祈りが必要だ」という緊張、「祈りがうまくいっているか?」という緊張、いずれそれらが意図を阻害するものとなるでしょう。

だから誤謬なのです。

いわゆる古典教育 曙光 195


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