いわゆる「自我」

いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。

まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか?

認識している主体でしょうか?

しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。

個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕

生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされているだけ、生きていることは苦しみしかありません。

やっているようでやらされている、それが「生きることは苦」と言われる理由です。

「アイツこと自我」主体の崩壊

アイツこと自我主体でやってきましたが、自我を満足させて、それでどうなのでしょうか。

穴を勝手に掘られて埋めさせられて、マイナスを設定されてゼロに戻して…という感じですが、世間ではそれが美しいと良いことかのよう囁かれています。

お腹が空いたから食事…おしっこがしたいからおしっこに行く…

社会人か学生かという分類にはまらないと世間で相手にされない、だから、やりたくもないことをやる…

見渡せばそんなことばかりです。

では、そうした穴を勝手に掘っているのは誰でしょうか?

そしてそれを埋めているのは誰でしょうか?

ドグラ・マグラで少し触れましたが、ある衝動によって行動を「やらされている」ということを知らないままに「当然で普通、気は狂っていない」と思うことが一般的な意見ですが、それは本当なのでしょうか。

自我の存在 生存本能への疑い

自我が自分の存在を脅かさないように、とりわけ生存本能に疑いをかけないように、何か頭の中で「見せている」のかもしれません。

汎用性が高い「法則」かのようなものをでっち上げ、奥底に眠る弱さを覆い隠すように、また、どんな苦しみでさえ「それは自分を脅かそうとするからだ」とすり替えたり、手を変え品を変え、自分主軸であろうとします。

生存本能的に都合の悪いことはすべて「恐怖」を与えることで目を逸らさせようとします。

自らに疑いをかけるものには容赦をしません。

どうあれば安全か?

そして、世間を見渡して、「どうあれば安全か?」というところで基準を作ろうとします。

しかしながらそんな法則性の根拠としてよく使われる「みんながやっている」ということは、本来何の根拠にもなりません。

なぜそんなものが根拠になるのか、一度は思いを馳せてみたほうがいいでしょう。

みんながやっている、だから自分もやる、というのは少しおかしな構図です。逆に誰もやっていない、だから自分もやらないというのも変です。

生存本能としての衝動

そう考えると、自我の作り出した基準というものは何なのでしょうか?

この生命を長引かせ、なるべく楽に、なるべく苦は少なくというところを頭で考えて法則性を持とうとしています。

その手前には「死にたくない、楽をしたい、苦しいのは嫌だ」という生命の生存本能としての衝動があるはずです。

人に認められたいという衝動も、他人からの攻撃を避け、周りを仲間にすることで安心したいというものが発端となっています。

そして、オス同士、メス同士の戦いの中で、異性に選ばれることで遺伝子を残そうという衝動が元でモテようとします。

その奥には「自分という情報」を消したくないと言うものがあるからです。

それを社会的に考えた場合、学歴だったり、オシャレだったり、群れたり、電話を手放さなかったりというようなことに化けてきます。

その奥はすべて生存本能としての恐怖心があります。

そしてその恐怖心のおかげで、「こうしておけば安全だろう」という恐怖心発端の基準のおかげで、記憶ベースの基準と現状の認定とのギャップのせいで、楽に生きるどころか、余計に苦しむ羽目になるのです。

嫌いな人の正体

例えば、嫌いな人がいるとしましょう。おそらくその人と、一昔前一悶着あったり、嫌味を言われたり、気が合わなかったりするということを知っているから嫌いなのでしょう。

そしてその人と再会したとします。

その時、おそらく嫌な気分になるでしょう。

その時、よくよく考えてみれば、その人と認識しうるだけの情報が目の前にあるわけですが、その時点では、「嫌いな人」が目の前にいるという視覚情報などしかありません。

ただの絵と一緒のはず

その場で、感じた嫌な気分というものは関係なく、ただ物質としての認識しかないはずです。

しかし、嫌な気分は起こっています。

確かにその人のことは嫌いなのですが、今現にその人に不快な身体的ダメージを与えられているわけではありません。

むしろその人が自分にも触れず、少し離れた向こう側で自分の知らない第三者とニコニコ談笑しているとしましょう。

それはそれでタダの絵と変わりありません。絵というよりも動画ですね。それなのにどうしてか、嫌いで嫌な気分になります。

その時、「この人が嫌い」や「嫌な気分」を起こしているのは誰でしょうか。

その人は現に今は自分に危害を加えていません。

それなのに、危害を加えられた時、もしくはそれ以上の嫌な気分が、起こっています。

それを呼び起こしているのは誰でしょうか。

今現に何もされていないのに、された時かのような嫌な気分を引き起こし、自分を苦しめている正体はなんでしょうか。

その正体こそ、アイツです。

それを捉えることで、アイツは崩壊を始めます。

自我と認識の第一の終焉

自分を注意深く観察していると、自我というものがどんどん弱ってきます。

この心が受け取るもの、端的には「情報」を、「私が」という主体性を持たずにただ受け取っているという感覚で自己観察します。

そうしているうちに、あれもこれも無意味に思えてきます。実際には無意味なのですが、あると思い込み、それまで求めて得ていた躍動感がすっかり消え、最大の「がっかり」を迎えます。

しかし、それでも最後までなかなかしぶとく消えません。

アイツこと自我は、自分に疑いをかけるものを決して放ってはおきません。なぜなら恐いからです。そして恐怖心の克服のための基準づくりがその基本機能ですから、そんな自分を消されては困ると思っています。なぜならそれそのものが生存本能としての恐怖心だからです。

よほど注意しないと、「愛」を持ちだしてでも引きとめようとしますから、困りモノです。

まさに愛によるカツアゲであり、自分ではないくせに、記憶として実体もないくせに、愛や善意の記憶でまた「自分の存在意義を再考してください」とじわじわ攻めてきます。

この一種の戦いは、どんな戦いよりも辛く、苦しく、誰の助けも借りることはできません。

せっかく良い所までいっても、寝て覚めれば、形勢が逆転している時もあります。

戦いなのですが、戦ってはいけないという、なんとも辛い戦いです。そこでは勇気も奮起も声援もなんの役にも立ちません。これは、見たくないようなことをイヤほど見せられる、たった独りの冒険の旅です。

例えば、好きな子の関心を引くため、少しでもメールの返信頻度を増やすために、「うちの近くの商店街で映画の撮影をやってたよ」などと、特に関心のないような事柄をわざわざメールで送ったとしましょう。そこで「ホント?行けばよかった」などと返事が返ってきたとしても、一度立ち止まって考えねばなりません。

「僕は何がしたいのだろう?」

いわゆる「自我」 曙光 115


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