あの日のおにぎり アナザーストーリー

あの日のおにぎり Another Story

おにぎりには、たくさんの思い出があります。小学生の時の「あの日のおにぎり」や、19歳の時、チャイニーズレストランで悔しさを感じて真っ先に買いに行ったおにぎり、いつもどこかでなにか大人ぶろうとして、その流れに気づいて、また原点に帰ろうとするときには、いつでもそこにおにぎりがあったように思います。

背伸びをしようとしている時は、どうしても高い食事に目が行きがちです。しかし、やはりどんな時でも、等身大に、そして自然体に戻るときには、慣れ親しんだシンプルなもの以上に感慨深さのあるものはありません。

ふと周りの環境に左右され、泥まみれのスニーカーから革靴に変わっただけで、どこか泥まみれのスニーカーを軽視しそうになる思考を追うことにしました。

20代最後の年に

20代が終わりを迎えようとした年に、僕は社長仲間に頼み込んだり、友人に頼んだりして、アルバイトを数回しました。あるアーティストが、原点を忘れずに、そして「あの頃を忘れ驕り高ぶらないように」と、たまに前職の資格を活かしてアルバイトをしているということをふと思い返したからです。また、違う側面で、校長が食堂のパートに扮しているというような「こっそり観察」をしてみたかったからです。いまでは特にそういうことはしませんが、その時にすでに会社役員になっていた僕は、どこかでもう一度、会社組織としては末端の最下層としての雇われ方というものに触れてみたくなり、社長仲間に頼み込むのでした。

しかし、それは純粋に経験出来たわけではありません。社長の友だちということが一応バレていますから、ある意味で守られたような立場でしたが、現場管理者の方以外には内緒にして、という形を取り、周りの一般従業員(管理職以外の方)、アルバイトの方などには「新入り」というフリをして、アルバイトに挑むことにしました。

いつしか周りは、会社役員や地方議員という類の人だらけになり、従業員側の考えや気持ちがわからないような人間にならないようにと、タダの一人の20代として、ぽつんとするという気分は、想像ではなく実践でないと想像の域を出ないでしょう。

そのアルバイトの時に感じたのは、もちろん、従業員の方の生の声や新入りの気持ち、自分がまだ10代だった頃の生き写しのような若い従業員の方の仕草や態度、いろんなことが生で感じられました。20歳くらいの若い従業員の方に「おい!新入り!」と呼ばれた時には、表現できないような面白さがありました。いきなりタメ口で話してくれる人が全然いない中、こういった経験は貴重です。

そしてその時に、一番印象に残ったのが、そのアルバイトの人たちを、何とか見下そうとする取引業者など、別会社の連中です。具体的には、こちらが挨拶をしても、挨拶を返さないことに「優越感」を覚えているような仕草でしょう。そしてその人達は普段、自分たちの顧客には満面の笑みを浮かべていることです。その態度の違いは、想像以上でした。

弱者のせめてものプライドでしょうか。例えば、職種や業種、雇用形態によって、その意味合い、役割を超えて、一つの人格を否定するような態度の違いです。

その人達はまさか、出入り業者の新入りのアルバイトが、どこかの現役の会社役員だとは思っていないでしょう。自分の雇い主と知り合いだということも知らないでしょう。

タダのアルバイトならここで耐えて終わりです。僕はその場で半笑いになりながら、後日当の会社の社長に「あれはいかんよ」と忠告しておきました。

アルバイトを終えて、即金でバイト賃をもらった僕は、おにぎりを買うことにしました。普段は直射日光の当たらないもやしのような日々を暮らしながら、その日は汗にまみれて、テカテカになった顔で、駅前のベンチに座りながら頬張ったおにぎりは、数万円の高級ディナーより美味しかったのを覚えています。

インフルエンザとおにぎり

先日、小学生以来全くかからなかったインフルエンザに罹りました。39.5度ほどにまで熱は上昇し、立とうと思っても斜めに倒れそうになるほどでした。エネルギー源はほとんどがポカリスエットでした。そして少し熱が下がり、食事を摂ろうとしたときに、おにぎりが出てきました(タイトル上部の写真はその時のおにぎりです)。

二つ出てきて、一つは食べることができたのですが、もうひとつは喉を通りませんでした。当然に内臓も弱っており、食べる気がしなかったのです。

この時、どうしても睡眠は不規則です。寝たと思えば、高熱で起こされ、規則正しい睡眠をとることはできません。

「一度寝て、起きた時に食べよう」そう思って、ひとつは残して、一度眠ることにしました。

しかし、次に起きた時はさらなる高熱が出ていました。食事どころではありません。それから何度も寝て起きてを繰り返しましたが、翌日まで食欲が戻ることはありませんでした。

そして、この写真のおにぎりは、食べられることなく、僕が知らない間に廃棄されていたようでした。その可能性を感じて、インフルエンザで意識が朦朧としているにもかかわらず、思わず写真をとってしまいました。

意味付け

何故か昔から、その存在にせめてもの意味付けをしようとしてしまいます。今まさにその「意味付け」を行っている最中ですね。生命として生まれ、様々な人の手が加えられ、そこに存在している「おにぎり」が自分の体と一体になる、という意味を持てないのならば、せめて記憶の中でというような謎めいた衝動です。

この味は、一度しかありません。再現しようとして近いものは作れても同じものは作れません。それ以上に、幾多の生命の結晶です。このおにぎりは「捨てるために作られた」と思いたくない、という気持ちが起こります。しかし食べても食べなくても同じことです。すでに生命としては臨終を迎えており、そこに心はありません。もう「死にたくない」という苦しみすら発生しない、ただの物質としてそこにあります。そして分解すれば、それぞれはただの物質です。コメやノリという概念よりももっと分解すれば原子レベルやそれ以上にも分解できます。そしてそれらには思考も感情も、何かを感じ取る心もありません。生命体として、植物としての死を避け、種を残すという意志すらありません。

そして、おにぎりを見つめるその間にも、自分の体はポカリスエットのエネルギーを使ってインフルエンザウイルスと戦っています。つまり死滅させていっています。死滅させるためのエネルギーとして、いわば武器や燃料として、ある程度のエネルギーが使われています。インフルエンザに罹らずとも、何かを殺すために何かのエネルギーを、何かを殺しながら摂っています。

どうして腹が減ってしまうのだろう、と同時に、どうして腹が減ってくれないのだろう、という思考がめぐります。

以前、大量に浪費する人が、料理を大量に注文して、そこで残されたエビをずっと観察していたことがあります。食べても食べなくても、もうすでに死んでいるのだから、朽ち果てていくか、食べられるか、焼き払われるか、くらいしか可能性はありません。物質として、食料として、エネルギー源として、そこにはあるのですが、時間の経過とともに、もうそれは食べ物としてはふさわしくないものになります。

そのエビは、そこでどんな意味を持って存在しているのでしょうか。はるばる海から何のために今その場所にいるのでしょうか。生命を奪われ、そして付けられた意味はなんだったのでしょうか。

せめて何かの意味を付けたいと思ってしまう、自分の思考は一体何なのでしょうか。

あの日の松葉焼き

中学生くらいの時に、深夜に目覚めて、少し空腹を覚えた僕は、冷蔵庫の中を物色しました。するとそこには「松葉焼き」というものが入っていました。スーパーの惣菜です。売れ残りだったのでしょうか、半額のシールが貼ってありました。半額になっていたということは当然に賞味期限が近いどころか、深夜で日が変わって日付上は一日経過しているというものでした。

「そうか、売れ残りだったのか、もし買われなかったら、その日に処分されていただろうな」

そんなことを思いながら、もう賞味期限は数時間切れています。その日に食べられなかったら確実に廃棄されるでしょう。寿命が一日伸びただけ。経済面では一応お金に変わりはしましたが、未だに廃棄という可能性を内在しています。

この松葉焼きに、存在してきた意味を与えたい

そんなことを思った僕は、特に好みの味ではないにもかかわらず、無理やり食べるのでした。

しかし、やはり美味しくはありません。ウスターソースをかけて何とか味をごまかしながら、食べていきました。

どうして、こんなに不味く生まれたのだろう

そんなことを思いました。さまざまな生命がくっついて、一つの食品として存在しているにもかかわらず、「まずい」と。

作った人の神経を疑いました。どうして、せめてうまく作れないのかと。同じだけの犠牲でも、そこにマズイから廃棄されるということを避けようとする意志はないのかと、憤りを覚えました。

食べる気はしませんでしたが、何故か涙が出ました。

捨てられるために生まれてきたような存在に、そしてそういう組み合わせをされた悲劇に、悲しみを覚えました。

時間が経過して、腹を壊してしまうから、捨てられるなら、捨てられてしまうことにまだ許容が生じます。しかし、マズイからというのは完全に作り手の責任です。そんなことがなるべくないようにして欲しいですね。

捨てられたおにぎり

自分の体調のおかげで、写真のおにぎりは知らぬ間に廃棄されていました。もう、当然にこの世には存在していないでしょう。栄養素として、またどこかで循環しているでしょう。それが悲しいわけではありません。

食べられたとしても、捨てられたとしても、このおにぎりには心がありません。しかしその奥にはストーリーがあります。そのストーリーは、僕の頭が勝手に想像し、勝手に関連思考を働かせ、勝手に反応し、勝手に憂いているだけです。

どうして意味付けをしようとするのでしょうか。そこには一種の感情移入があります。しかしながら、この一種の憂いにとらわれているわけではありません。知らぬ間に忘れているような同じようなケースもたくさんあったはずです。

なぜ腹が減ってくれないのだろう?

仮に食べ物に心があるなら食べ物に怒られても致し方ない、でも食べたからといって何が変わるのか?

この問いは宙に浮いています。こうしている間も、自分の体は、意識とは無関係に、様々な細菌やウイルスを死滅させています。

少なくとも、自らの感情のためには、他の生き物を苦しめたり殺したりしないように。インフルエンザに罹ったあの日のおにぎりが黙ってこっそり教えてくれた大切なこと。


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