あきらめることから始めよう

最近では様々な本で「あきらめる」の意味が解説されるようになりました。

「真理を明らかにする」

「明らかに眺める」

などと言われます。

確かにその通りなのですが、「真理」などと言われると、胡散臭さが拭えません。

すぐにアイツは「どうして真理といえるのですか?」と投げかけてきます。

もしくは「眺めて何になるのですか?」と攻めてきます。

ふと字面だけを追うと、アイツにいいふうに使われます。

2つの手法

これを避けるためにはいくつか方法があります。

本当はたくさんあるのでしょうが、ここでは2つだけご紹介しましょう。

そのうちのひとつは、前に書いた「怒りの本音」、もうひとつは「分けてみよう」です。

怒りの本音

過去記事はこちら 怒りの本音

イライラしていても、目の前の現象は引き金なだけで本当はもっと深いところに原因があります。

その心の動きを見るだけでいいです。

表面的な事象ではなく、もっと根本にある恐怖心を探り出す旅です。

恐怖心と戦わなければならないような気になりますが、恐怖心はあくまで「反応」であり、感情なので、戦わないようにしましょう。

消せと言われて消せる性質のものではありません。

恐怖心の原因は、本能的なものもありますが、一般的なものは、どちらかというと思考による幻です。

ですから、思考面で解決すべきでしょう。

最終的には「何もない」「何も決まっていない」ということを思考面で最後まで考えきるのもいいかもしれません。

ひとまず感情は、感じきって解放すると落ち着きます。

そこから考え出せばいいのですが、低い次元で考えてはいけません。

抽象レベルをどんどん上げてみましょう。

で、何事も気にならないレベルまでいければ完璧ですが、「これ完璧だろうか?」などと考えるとアイツの餌食です。

確認作業は常にパスしましょう。

分けてみよう

何かを好きになったとして、それを「好きな気持ち」と、「離したくないという気持ち」を同一視しないことです。

「あなたのことが好きだから、いつまでも離したくない」

というのはロマンスの世界では、ぐっとくるのかもしれませんが、本来は切り離さなければなりません。

十代の恋愛などでは、語彙力というか使う言葉が限られていて、「好き」という言葉は一般的でかなり広義なもので、本来はもっと細かく分類できることを知りません。

「離したくないという気持ち」は、ただの執着で、なにも褒められたような感情ではありません。

耳が痛くなるようなことを言うかもしれませんが、その執着は、「僕はくだらない人間なので、あなたの支えがないと生きていてもつまらないのです。駄目な僕の犠牲になってください。どうか僕の幸せの踏み台になってください」と言っているようなものです。

相手の意思など無関係です。

それは、かなり痛い話です。

分けて、純化して、好きという気持ちだけを大切にすればいいだけです。

じゃあ、何にもとらわれることなく、何事も簡単に「あきらめられる」のではないでしょうか。


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