あきらめるが正しい

「学ぶは『まねぶ』からで、結局マネすることです」と、かなりの頻度で引用されます。

安易にこの言葉を使う人は、「ほら、俺を真似ろよ、俺を尊敬しろよ」と数%は思っているのではないでしょうか。

よく方法論ばかり解説する人がいますが、別にそれを取り入れて体感してみるのはいいのかもしれません。

しかしながら、うまくいかないことが多いように思います。

試してみる人用にカスタマイズされた方法論でもなければ、時代、状況、対象も異なるのだから当然でしょう。

あくまで参考程度でとどめておいたほうが得策でしょう。

そこに「20万円も払って聞きに行った話なのに」とか、「かなり有名なその世界の権威が言っていたのに」などと思いだすと、苦しくなるだけです。

「そんな話はブックオフで100円で売っている」

常にそれくらいの感覚でいるほうがいいでしょう。

ひたすら純粋なお勉強はいくら真似ても問題はありません。

1+1=2とかです。

ただ、「親鸞の言う悪人正機とは・・・」みたいなことをいくら勉強してみたところで、それが間違いだったらどうしますか?

その道について、ずーっと勉強して、学んで極めたところで、その道自体が間違っていたら、

「何だったんだ?」

ということになります。

人の言うことを素直に聞くことはいいことですが、あまりこだわらないほうがいいと思います。

「間違いであることの証明もできないが、正しいという証明もできない」

これは考えていけばわかることです。

「じゃあ一体どうしたらいいんだ!」

と、なりそうですが、どうすることもできません。

ここで一つ、もう一段階踏み込んで考えてみましょう。

間違いであることの証明もできないが、正しいという証明もできない

トートロジー

真偽というものを考えたとき、唯一絶対の「真」がただひとつあります。

それはトートロジーと呼ばれ、訳すと「同語反復」のような感じになります。

恒真式とも言われます。

A=A

例えるなら、「私は私である」といった感じでしょうか。

ただ「は?」となられたように、これは無意味です。

いちおうwikiからでも引っ張りましょうか。

恒真式(こうしんしき、tautology)とは論理学の用語で、「aならば aである(a → a)」「aである、または、aでない(a ∨ ¬a)」のように、そこに含まれる命題変数の真理値、あるいは解釈に関わらず常に真となる論理式である。 トートロジーとも呼ばれる。

絶対に正しいけど、なんの意味もない命題です。

 詳しくはウィトゲンシュタイン君にでも聞いてください。

ただ、すべての真偽が確定しないと決められない、というのは生きていけなくなるので、社会では蓋然性(まあ確かだろう)で動いています。

「間違いであることの証明もできないが、正しいという証明もできない」

 これにフラフラになってしまうのは、他人を意識しているからです。

対外的な証明は、論理上不可能なだけで、「思い」、つまり自分の中だけなら、問題はないわけです。

「あいつにもわかってもらわねば」

「オレの考えを通さなければ」

そんなことは国会や会社の会議室での話で、別に個人的にはどんな考えを持っていても全く問題がないということになります。

論理上はね。

でも苦しいの嫌でしょ?

誰が言っていたとか

誰が言っていたとかが関係ないというのはこういう感じの理由からです。

そして、僕が他人の評価も意見も何も気にしない理由はここにあります。

根拠を提示しないのもそういう理由です。

「この理由を根拠にねじ伏せたい」というものでもなくて、「関係ない」からです。

「関係ない」すら関係ない。

わかりにくいですがそんな感じです。

そんな感じで、「別に誰が言ったかとか気にせずに自分で感じればいいんじゃないですか?」ということです。

学ぶのもいいですが、結局自分でやってみて感じたことだけが本当のこと。

ただ、「儀式」なんかで幻覚見るでしょ?

あれは「脳騙し」です、と先に知っておかなければ、変な団体に洗脳される可能性がありますからね。

もしくは、「おれは救世主の生まれ変わり!」とかになりそうですからね。

最後は捨ててください

ゴータマ兄さんは

「もうオレの言葉にとらわれるなよー。自分で感じろよー。最後はオレの言葉すら捨てろよー」という旨のことを言っていたようです。

「捨てるくらいなら最初からいらないじゃないか!」

そうなりそうですが、そんなことはありません。

はしごを使って上に登ったら、もうはしごはお荷物です。

捨ててしまえばいいのです。


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