「独りで歩む」 独立自由と対人関係

「孤独のままの方がよいのでしょうか?」

「どうしても人と関わらないと生活できません」

一応今回の質疑応答の最終回は、上記のような問いに対して、総まとめとして「独りで歩む」について触れていこうと思います。

「独立自由」という言葉を見ると「脱サラして独立するぞ!」とか「自立した生活を!」というようなことになりそうですが、多少被っている面もあるもののそういった感じではありません。

孤独のままの方がよいのか?

何かとの関連性が無ければ無いほど、煩いは少なくなっていきます。

「孤独のままの方が良いのかどうか?」

という思いがあるということは、どこかで「孤独は嫌だ」とか「孤独は辛い」と思っていたり、反対に「孤独でないことが嫌だ」とか「孤独でないことが辛い」といった感情が起こっているはずです。

つまり、人や人の集合である社会との関連性が一種の条件になっている状態です。

相手との関連性の状態に関わらず憂いのない状態、これが「独りで歩む」ということです。

そのために、ということで、自己啓発洗脳組は「解釈を変えよう」と提案してきます。つまり、憂いが起こっているような関係性について、肯定的に解釈を変更することによって憂いを喜びに変えようとする試みです。

しかし、そんなことはしなくても構いません。

人との関わりを求めてしまう渇望感、つまりは「欲」と、人との関わりを排除しようとしてしまう嫌悪感、つまりは「怒り」が本質的な問題であって、人や社会との関連性は現象であり、起こった瞬間に消えていくような朧気なものです。

それをしつこく関連させようとしているのはアイツであり、欲や怒りが根本原因にも関わらず、人との関係性そのものに原因があると、議論をすり替えます。

ただ、自我の錯覚の中にいる人と関われば、相手の意識はアイツの欲と怒りで満ち溢れています。そんな中、気をつけていないと知らぬ間にその意識に影響されてしまうから気をつけましょう、ということになります。

相手に執著しない

相手に執着するというと、相手のことが好きで、自分との関連性を保ちたいというような旨ばかり思い浮かべますが、そんな相手の状態について何か希望を抱いてしまったり、反対に相手のことが嫌いで、相手の状態について希望を抱いてしまうということもあります。

いずれにしても、自分の喜怒哀楽などの発動条件として、「相手の状態」というものが設定されている状態です。

そこで自分としては憂いてしまうような状態に、相手がなってしまったとしましょう。

そんな時、相手を変える必要はありません。

相手を変えてまで自分との関係を保とうとしてしまうのはなぜでしょうか。

その相手との関係性を無くしてしまえば終わりです。

その際に、血縁関係だからとか、長い付き合いだからとか、そういった相手との「関連性」を持ちだして、関係性を維持をしようとしてしまうということ、それは一種の執着です。

だからこそ、「父や母、妻や子を捨てる」という事が必要になります。

その深い関係性がある対象との関係性のおかげで、アカの他人であれば気にならないようなことでも気になってしまうのならば、それは執着になります。

執着すること自体が「誰かに叱られるような悪いこと」というようなことでありません。それ自体が憂いのタネになっている、というだけで、それを保持している限りは、独立自由はありません。

人と関わるということ

人と関わると、ほとんど必ず憂いが生じます。

完全になくすためには人との関わりをなくさざるをえないでしょう。

「それでは生活ができない」

と、すぐに思ってしまいますが、現状を維持したりそれ以上にしたり、少し現状よりも不便になるくらいしか想像の範囲にないだけで、人間など所詮動物と同じくらいの要素しか生命維持に必要な項目というものはありません。

別にスーツを着なくても、水を飲むことはできます。

それをスーツを着ていないと水を飲めなくなるという程にまで関連思考を働かせているだけのこと。

そこには本能とは逆行した、文化や風習のようなものの呪縛があります。

そういったわけで、別に友達も「必要」ではありません。人に好かれたり羨ましがられる「必要」はどこにもありません。

それを拒絶はしなくとも、求める必要はどこにもないということです。

結局は本能的恐怖心が化けて出ただけのことです。

シンプルなものを複雑にしているだけで、根底をたどれば、非常にくだらないような遠回りのやり方に振り回されているだけのことです。

生存本能、生命維持のため、という動機が、「人には好かれたほうが良い」といった感じで「好かれたほうが良い」という「必ず要るというわけではない要素」を必須要素かのように思い込んでいる、と言った感じです。

これもまた拒絶する必要はないものの求めるようなことではありません。

それが無くなった瞬間に、何もかもが成り立たなくなるもの、それが必要なことです。

人間の生命に関して言えば、酸素などがそれにあたります。

生命維持のことばかり考えているのは生存本能です。

それは自分であって、自分ではありません。


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