「汝自身を知れ」は学問の全体である

あらゆる物の認識の終わりになってはじめて、人間は自己自身を認識したことになるであろう。なぜなら、物は人間の限界であるにすぎないからである。 曙光 48

汝自身を知れ」とぱっと見ると、「まずは自分を知ろう」というよく就職カウンセリングでありがちな自己分析のようなことをしか思い浮かばないと思いますが、一応これは古代ギリシャの神殿に掲げられたものです。

格言は短文であれば短文であるほど、たくさんの解釈ができます。理屈上は、文は長いほどひとつずつの単語の定義を解釈していけるので、長文のほうが解釈の幅は広がりそうですが、簡単で単純な格言ほど、想像力がたくさん働きます。

先の投稿で触れた、宣言一つとっても同様です。単純明快な言葉ほど汎用性があります。

「そこがいいんじゃない!」

「どこが?」

「そこが」

「だからどこが?」

この時頭は勝手に「どこ」を探してきます。見つからなくてもまた繰り返せば根負けします。「どこ」の検索結果として出てきた「何か」に「どこ」が代わっても、何かの中にも要素はたくさんあります。

さて、「汝自身を知れ」です。

汝自身を知れ

汝自身を知れと言われて、「具体的には自分の何を知ればいいんだろう?」という疑問が起こります。就職活動用では「自分の強みと弱み」みたいなことになりそうですが、これだけ短文だと何かと解釈できそうです。

「人のことはともかく自分を見ろ」ということにしても、人を非難していないで、自分の行動を振り返れ、というようなことから、人の生きざまは参考にしなくていいから、自分のやりたいことをやれ、的なことまで少しずつニュアンスの違う解釈で色彩豊かです。

中学生の時の僕のような思考回路なら、「それならば僕に『知れ』と言わずに自分で自分を知っていればいいのではないか。なぜ自分以外の人に命令しているのか」というようなことまで考えるでしょう。

「学校内の清掃活動は、良いことです」

では、なぜあなたはしていないのか。

ということです。

「学校を利用しているのはあなた達です」

あなたもです。

というような感じになります。

自分の何を知ればいいんだろう?

自分について知ったつもりでも、自分に付いている属性について知ったことになるだけです。では自分についての属性ではなく「自分」とは何なのか、ということについて考えるというのもひとつの解釈です。

自分の属性や癖を知って、何かを主張する、意見を作るというのは就職活動等々の時です。つまり、誰かに何かを主張する時です。

それよりももっと純化された「自分」とは何なのか、実体として知ることは出来ません(諸法無我)。

様々な外的情報によってついた情報の集合体である「我」ということになりますし、自分についている属性は自分「そのもの」というわけではありません。

ということで、知れと言われても、知ってもすぐに変わります。外部との関係性によって構成されており、諸行無常ゆえに、それはすぐに変化します。知ってもすぐに変わるとらえどころのない自分に、何か実体を求めてもそれは意見として宙に舞います。

「汝自身を知れ」は学問の全体である 曙光 48

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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