「原因と結果!」

われわれは実際は「原因と結果」の像以外何ものも見なかった。そしてこのような像であることこそ、継起の結合よりも本質的な結合を洞察することを、たしかに不可能にするのだ! 曙光 121 後半

原因と結果、というドストレートなタイトルになっています。曙光においてニーチェがたまに「!」を加えるところは意気込みを感じますね。熱がこもっています。

今までも何度か原因と結果については触れていますが、タイトルが「原因と結果」だけに、もう少し詳しく書いていきましょう。

GDPの三面等価のように、諸行無常、諸法無我、一切行苦はそれぞれ別の方向性から同じことを捉えたものです。同じことをどの方面から捉えるかというだけの問題で、それぞれがまるでバラバラというわけではありません。

人によって、最初にどれがズドンと体感できるかはバラバラだと思いますが、ひとつがわかれば後は残りの全てが抵抗なくわかります。同じものですから。

原因を説明するということ

原因と結果を考える時に、よくやってしまうのが巨視的に捉えてしまうということです。すごく大雑把にしか捉えないため、ただの感想のような漠然としたイメージしか捉えることができません。

しかし自分が分かる範囲で「考えよう」とすると、すぐに限界が来ます。しかしそれでも、ただぼんやりとしているよりはいいでしょう。

因と縁は少し異なりますが、結局は両方原因です。ただ属性的に分類しようと思えば分類できるだけで、両方原因といえば原因です。印象としては因は直接的な原因、縁は条件のようなものです。発動条件としての環境のようなものに近いでしょう。

しかし、いつもたまに曖昧にしか言いませんが、原因というものは単純といえば単純ですが、それほど単純ではありません。寄与度の関係で「原因」の中でもとりわけ目立つ原因があるおかげで、その他の細かなものが見えにくくなっています。

どうしてそれほどまでに仔細には触れないのかというと、あるひとつの現象の原因を全て説明しようと思うと、一生をかけても間に合わないほど多いからです。

おおまかにはなりますが、例えば今現在進行形でコーラを飲んでいたとしても、どうしてコーラを今飲んでいるのでしょうか。

大雑把に考えると、のどが渇いていたからとか、コーラが好きだからとか、目の前にコーラがあったからとか、コーラを飲み干せるだけの五体満足だったからとか、たくさんの大雑把な原因が考えられます。

安物の心理学を知った程度で原因をもう少し考えようとする人は、繰り返しコーラのポスターを見たからだ、というようなことを考え出すかもしれません。

では、コーラを飲んだ後、しばらくしておしっこにいったとして、その原因は、先ほどコーラを飲んだことが原因といえば原因ですが、それは大雑把に考えた時です。

もう少し仔細に分解すると、コーラを手にした段階で、コーラをコーラだと判断して、かつてコーラを飲んでおいしかったという記憶や、体調がおかしくならなかったというような経験則から、目の前のコーラはコーラであるという判断があって、飲むことを許容したことや、そもそもコーラを手に入れることのできる環境下にいて、コーラを手に入れることができたこと、そして喉の渇きも、それまでの体の持つ水分量が排泄や呼吸で減少していって、水分不足を身体が反応として意識に送ったこと、その間のプロセスとしての気温や気圧などの影響、信号伝達に関わるイオンの変化、現在不足している栄養素は何かという判断、それをキャッチして意識の中で「水分を含有しているもの」を摂取しようという意図の発生、などなどたくさんあります。

意識の中でも、先日はファンタを飲んだから、今回はコーラでという意志決定の間にある原因や、本当はファンタを飲みたいが、ファンタを手に入れるには労力がかかり、冷蔵庫にコーラがあったからコーラを飲もうと思った、というようなわかりやすいものから、甘い炭酸の清涼飲料水を好みとするまでの遺伝的、経験則的な意識の形成のプロセスまで、原因は多様です。

これ以外にも、自分が今動物として生きているという事実を支えている原因、財布の中身、入手までのプロセスにおいての身体の変化、労力と気力の天秤からのゴーサイン、飲むにあたって邪魔が入らないなど、たくさんあります。

もっと細かく言えば重力が働いていることも縁に入ります。無重力状態で、今と同じように缶のコーラを座って飲むということは実現しません。

コーラを飲んでいるという状態も、口についた瞬間から喉を通る瞬間、感覚が消える瞬間まで、瞬時に変化しています。

コーラを飲むという現象ひとつとっても、口につけてから胃に入るまでであっても、それぞれのプロセスに膨大な原因があります。

そういうわけで説明しきれません。

たった一つの動作の原因

たった一つの動作にも、それなりの原因があり、その動作の結果が次の動作を意図する原因のひとつにもなります。

肩が凝って腕を伸ばしても、おそらく伸ばしっぱなしということはありません。伸ばしっぱなしということはずっと伸ばしっぱなしということです。

では、どうして腕を伸ばそうとしましたか?

肩が凝っているからです。

ではどうして肩が凝りましたか?

仕事でパソコンを触りっぱなしだからです。その間体が不自然な姿勢をしているからです。

ではどうして、その仕事をしているのですか?

生きるためのお金を稼ぐために、この仕事を選び、この仕事をしています。

ではどうして、その仕事を選びましたか?

自分が得意な仕事だからです。

ではどうして、その仕事のような仕事を得意になるようになりましたか?

中学生の時からパソコンと出会い、その世界が楽しかったからです。

ではどうやってパソコンと出会いましたか?どうして楽しいと思いましたか?

全てが原因です。

本当に調べようと思えば、無限に原因の原因が広がっていきます。

しかしそれら全ての結び目が、現在の結果です。

「原因と結果!」のおむすび

この全ての原因が、今この瞬間に結果として生じており、この結果もまた瞬時に次の結果の原因になります。

しかしそれら原因は、自分が作ったものではありません。

いくら農作物を作っている人を「生産者」だといっても、その人たちは植物の意図を縁たる発動条件で結んだだけで、植物というものを生み出したわけではありません。植物はその前に親となる植物がいて、子孫として種になっただけで、種を人間の誰かがゼロから生み出したわけではありません。

選んでいるように見えても、選んでいる意志決定の原因すらも、それまでの原因が結ばれたものです。

法則と、体が持つ快不快と、誰かの意識とが組み合わさっただけで、全くオリジナルの考えなどどこにもありません。

ただ五感と意識によって原因の結果を感じているだけで、主体となる何かというものが「存在している」というわけではなく、この体も、この意識も、無限に近い原因が一つの結び目を生じさせて、その結果をただ心が受け取りながらも、それは一瞬で流れていっているだけのこと。

だからこそ、「生かされている」という表現にもなりますが、これは、生きていることが素晴らしくて、周りの環境などによって生かされているという「ありがとう、おかげさまで生かされています」というような単純な道徳論のようなことではありません。見方を変えれば「やらされている」という風に見ることもできます。

生きたくて、「おかげさまで生かされています」と言っているのは誰でしょうか?

それは紛れもなく「生存本能」です。

「原因と結果!」 曙光 121


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