「利他主義」の原因

人間は一般に、愛を少ししか手に入れたことがなく、この食物を飽きるほど食べることができなかったので、愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた。 曙光 147 序

「愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた」というのは、なかなか面白い表現です。

「愛」という表現に持っている人の印象は様々ですが、イエスが言ったような「神の愛」は、いつでも無限に降り注いでいるという感覚です。

愛が限定的でたまにしか現れないと思っているからこそ、たまに現れた愛のようなものに執着し、それが感じられない時は不足を感じて渇望する、ということになっています。

月明かりのアスファルト

人は自分の瞳を生で見ることは出来ません。

しかし目に映っているものは全て自分を照らしているということ感じたことはないでしょうか?

反射した光であっても、自分に向かって光を送っているからこそ見えるのです。

だから、いま見えている全てが自分を照らしているという風に考えることもできます。

僕はそんなことを夜に散歩している間、「アスファルト」から教えてもらいました。10年位前の話です。

僕が歩くたび、もっと言えば立っていたとしても、バランスを取ろうとして顔が動いている間、常に視界は少し変わっているため、どれがアスファルトであるかを正確に示すことはできません。

しかしながら、目の前に映るアスファルトや電柱、道端の草、人の家に駐まっている車、ひとまずそれぞれが視界の上で固定的な形であるわけではないのに、常に視界の構成のバランスは変わりながらでも、常に何かが自分を照らしているのだいうことを感じました。

その時に一呼吸しました。

すると当たり前ですが、空気はずっと続いています。遮断されていると言えば瓶や缶など密閉されているものの内側くらいで、ほとんどのものとは空気とつながっています。

そして自分の息の温かさを感じました。

すると、熱でいえば、空気がペットボトルなどで遮断されていても、細かなところで言えばそれを通り越すのです。

当たり前のことですが、真夏に冷たいペットボトルを冷蔵庫から出せば、部屋は少し涼しくなるという感じで、同時に僕の体温は部屋の温度を暖めたりしています。そしてその熱はペットボトルをぬるくします。

そんなことを思い浮かべた後、アスファルトに僕の影が伸びました。

振り返ると、月明かりが見えました。

アスファルトは僕に月明かりを返していましたが、影の裏側では僕がアスファルトに月の光を返していたのです。

そのような感じで、この世の全てが相互に全く影響を与え合わないことはないということを思ったのです。

そこに愛は感じないでしょうか?

「利他主義」の原因 曙光 147


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