「主観」の未知の世界

太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭

人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません。

そういった人に触発されて自己分析を行い、その時に意識をあるカテゴリの中に当てはめてしまうと、それはそれで様々な「幅」を狭めてしまいます。

もしそういったある種の「特性」を発見したとしても、それで終わらずに、「これは誰によって形成され、そして自分はどうしてそれを採用しているのだろう」と考えてみると面白いかもしれません。気づくだけでも自分のコントロール下に入ったということです。そこで捻じ曲げてはいけません。すーっと解放してやりましょう。

主観が歪んでいる

普段見ている世界の方が歪んでいるのですが、普通はそんなことは思ってもみません。いきなり「ありのままを観る」ということなどなかなか出来ないでしょう。

それでも1つずつ解除していく方法はあります。

ある程度集中力を高めないと、また歪んだ空間が広がります。それでも構いません。ガタガタ崩れ去っていくにはそれ相応のプロセスがあります。

元の体験を探ってみる

その一つの方法、これはある程度までしか効きませんが、感情の抵抗を感じた時に、その元の体験を探ってみるということです。

「本能的に怖がることでもないはずなのに、今起こっているこの感情の抵抗感は、おそらく意識的、無意識的問わず、『こだわり』によるものだろう。そのこだわりは、誰によって形成され、そして自分はどうしてそれを採用しているのだろう」

何かの出来事の記憶や再三言われた躾の類かもしれません。

抵抗感を感じる

例えるならば、人も車も誰も居ない道で、赤信号を無視して渡ろうとしてみるときなどが面白いでしょう。次に車などが走っておらず、歩行者しかいない場合に、赤信号を渡る時に出てくる抵抗感です。

なぜそのルールを採用しようとしているのか、ということです。

誰もいなさそうな道でもウインカーを出すのは、見えていないだけで、本当は人がいるかもしれないという予測が立っているからです。しかし、もし昼間で、だだっ広く明らかに誰もいない時にでも、交差点を曲がろうとする時、体は一瞬ウインカーを出そうとします。

「決まっている、ルールだ」で、話が終わってしまっては、元も子もありません。決まっていてルールかもしれませんが、誰かが決めたことです。どうしてそれを採用しているのでしょうか?

あえてルールを破る、というのはまた話が違いますが、頭の中で思いを巡らせるだけでなく、実際の体験の中で、沸き起こってくる意志決定のプロセスを観察してみると面白いでしょう。

「主観」の未知の世界 曙光 116


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