「もはや私のことを思わない。」

まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼がまったく好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛び込むのは、なぜか?同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。― と無思慮がいう。 曙光 133 序

「サービス精神で世話をすると、相手の欲を刺激してしまうことになるのだ」

最近はそんなことをよく感じます。

考えてみれば、不良のお母さんは、その人をよくよく世話していたりします。世話をすればするほど、相手はそれが当然だとも思ってきますし、恩を感じるどころか「自分の奴隷だ」くらいに思ってきます。

だから、必要以上の世話はしてはいけないのです。

これは菩提心からの慈しみの最終的な課題としてクリアしていく必要のある事柄です。

不良のお母さんも、別に何か本人の自尊心的な問題があって世話をしているのではなく、むしろほとんど純化されたような慈悲に近い心持ちであることがほとんどです。

しかしながら基本的にはプラスになることも、その裏側で相手の煩悩を加速させてしまうというマイナス面も含んでいます。

「やってもらうことが当たり前」となった人たちは、やってもらったことへのありがたみではなく、「やってもらえなかった時の怒り」しか生じさせません。

感情による説得を無視する

世の中には、「私可哀想でしょう?」とか「あなたがこういう人だったらステキだと思う」というような感情的な雰囲気で説得を行おうとする人がいます。

「いい人だと思っていたんですが」とか「しっかりした人だと思ってました」などと言いながら、感情面で説得をしてきます。

これらは子供だましのような方法であり、その奥には単純に貪りが込められています。

「可愛そうな人を助けるのがいい人ですよね?」

「そしてあなたはいい人でありたいですよね?」

的な感じでじわじわ攻めてきます。

相手にしたが最後、あなたが縁切りに踏み切るまで自己都合を押し付けてきます。

サービスとメモリー

世の中にはサービスとメモリーという気質上の分類があります。世話をする側とされる側ですね。

大半がメモリーです。幼いころに「駄々をこねて願いが叶った」という記憶を成功法則として保持しています。

そして人に世話をしてもらうのが好きですから、一方で被支配欲をもっています。それが抑圧されると被虐欲求を持つこともあります。

社会の中ではメモリーのほうが企業を大きくすると言われがちですが、それは単純で理不尽なことでも「駄々をこねる」のがうまいからです。

サービス側の人は自分でなんとかしてしまおうとしますが、メモリーは駄々をこねたり、人にお願いするのを得意としているからこそ、実力以上のことを周りが嫌々ながらもしてくれるというのが本当のところです。

しかしながらトップクラスとなるとサービス側ばかりになります。

なんだかんだで、メモリーによる成功は、周りを辟易させていくので、徐々に周りの支援にも制限がかかり、最終的には良質の人材も抜けていくからです。

被虐と解放

「もはや私のことを思わない。」 曙光 133

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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